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夜半、腹が減ってコンビニへと出かけた。コンビニは私のアパートから駅を挟んで反対側にある。夜風が贅肉のないしなやかな身体、もとい、筋肉すらない虚弱な身体を冷やし、腹にこたえる。私はコンビニへ出かけた時には大体海苔弁を買う。コーラ味のガム。ジャスミン茶。ジャスミン茶の良い所は味のあまりない所である。口の中に甘い味やらが残るというのは気持ち悪い。私は昔ココアの粉が大変好きで、一時期はココアの粉だけを食して生きてきたが、口内が大変甘ったるくなるのと、虫歯に悩まされたためやめた。コーラ味のガムを買ったのは、人間、そうはいっても糖分は必要である、ということを意味する。この時間は必ずおなじお姉さんがバイトをしている。ややぽっちゃりとしていて笑顔のすてきな女性である。若い身空の女性がこんな夜中にアルバイトなど、大丈夫であろうか、と心配になるのだが、ここは日本だしそんなに不安に思うこともないのかもしれない。女性は一言
「あたためますか?」
と聞いた。私は、
「結構です。」
と答えた。
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ぼくはこの未来世界の惨状は、彼らが自ら招いた罰だと考えて自分を慰めた。人間は同胞を搾取し、必要性という言葉をスローガンに、安逸の生活を送ってきた。しかしやがてこの必要性という怪物に復讐されたのだ。
—H・G・ウェルズ「タイム・マシン」
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虫がいる。私は虫が苦手である。ゴキブリが好きというものはなかなかおるまいが、何にしても私はとにかく虫というものが嫌いである。ちょっとカブトムシを手の上に乗せてみてほしい。うごうごと手の上で動くだろう。この甲虫と目を合わせて語り合ってほしい、恐らく奴は何も語りかけては来ないだろう、しかも飛ぶ、当たると痛い。そしてなんとか捕まえてプラスチックの飼育ケースにもどしてやるとその黒い、まるで何も読み取ることの出来ない目を持った生き物は、ちうちうとカブトムシゼリーを吸うのである。かつて純粋な瞳を持った私はカブトムシの気持ちにより親身になるためにこのカブトムシゼリーを食べてみたことがあったが、匂いの割にあまり味がせず、しかももちゃもちゃとして生暖かく、なかなか飲み込むことの出来ない。とにかくこんなものを食っている生き物とは生涯仲良く出来ないだろうと思い、飼育ケースを公園に持っていって、すみの方でひっくり返した。特に思いやりもなくひっくり返したのでカブトムシはこんもりと盛り上がった土の下敷きになる形になったが、しばらく見ていたらカブトムシは土の中から出てきた。ケースは公園の水道できれいに洗った。洗い終わってまた土の山を見るとカブトムシはもう何処かへ行ってしまっていた。あんな何を考えているかわからない生き物と生活し、あの瞳で見られているというのは、どうしてもいいのかわからなくなってしまうものだ。無論カブトムシを勝手に逃がしたので、まだ幼かった弟はさんざん泣いた。許せ。
カブトムシはいまでも木にはり付いてちうちうと樹液を吸っているだろうか。
ときにカブトムシはなぜ日本に一種類しかいないのか、クワガタムシは数種類いるのになぜ。とある本で読んだがそもそもクワガタムシはクワガタムシ科を形成しているが、カブトムシはコガネムシの亜科で、コガネムシの三分の一はフンコロガシらしい。つまり母数がもう違うのである。しかしカブトムシだってそれでも何百種類もいる訳であるから、いったい日本でどのような淘汰が行われたのか。それを想像するとおそろしい、カブトムシは昔他のカブトムシをヒトラーのように虐殺でもしたのだろうか。生物学を専攻する友人は、多分日本に来たのがたまたま、あのカブトムシだけだったんじゃないか?と言っていた。カブトムシに取ってこの国は。争う同族のいない楽園であったのであろうか。
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人は常にものの状態を変えることによってその変化を記憶し、変化そのものに価値を、意味を見いだすものだ。情報というのは変化の蓄積である。例えば、今あなたがこのページの上の端をつまんで、ちょいと折り曲げてみるとする。そうすることによって、このページには何かしらの意味性を帯びることになる。これはあくまで自分に取って、このページは特別である、と言う順列の問題である。私はまた読み返したいフレーズの存在するページほど、深く折り目を付ける、と言う自分の中でのルール持っているが、これはあくまで自分の中のルールである。しかし人間というのは面白いもので、これを他人が見た時に、感情移入という方策でもって、この本についた折り目の意味性を推理することが出来るのである。フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」ではネクサス六型という「外見や行動では人間と区別できない」精巧なアンドロイドと、人間を区別するための手段としてフォークト=カンプフ感情移入度測定法と言う、動物や生命に如何に感情移入を行い、生命が失われる、「死」と言う概念に対して、一種の生理的嫌悪をもよおすかどうか、というテストを行っていたが、一般に人間が推理、と定義するものは、如何に他者に感情移入し、かつ合理的思考によって、行動の枝葉を取り払い、さらにその合理性も取り払い、感情も取り払って、やっとそこに残った貧弱な情報の枝葉をみて、これぞ真実、と納得するのである。真実というのは常に、わずかな情報、出来れば一言で言い表されねばならない。なぜならば長ければ長いほど屁理屈に付け入られる隙があるからだ。ゆえにかつてイギリス人は真理とは「四十二」である、と言った。これは矛盾の発生しない強い真理ほどもはや枝葉が取り払われてしまいすぎて何の意味も成さない、という良い例である。あるいは昔の哲学者は、とにかく文章量を多くし、難解な言葉を使い、回りくどい書き方をし、もはや生涯のほとんどを費やさねば読めないようなものを真理と定義した。これはとても素晴らしい効果を発揮したものである、なぜならば、それは読むのもめんどくさければ。理解するのもめんどくさいし、ましてやその素晴らしく長い文章にいちゃもんをつけることなど、さらに面倒臭いことである、ということを、だれもが理解したからである。その真理の文章は、一般には聖書と呼ばれる。
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「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」(我が神、我が神、なんぞ我をみすて給いし) —「マルコ伝 十五章」