2012年7月10日火曜日

男の話。


「最近もまたそのことを考えたよ。ソシュールなども読んでみた。正確には文字表現というべきだろうけど、やっぱり言語ほどでたらめな記号はないという結論に達してさ。何度考えてもそうとしか思えないんだ」
—筒井康隆 「残像に口紅を」


 事実は小説より寄なりというが、小説より寄にあふれた出来事があるならばどうか私の目の前に持って来てほしい。平々凡々とした生活を送り、小規模ながらも波瀾万丈に生きて来た私は、大学三年生にして、現実に対して期待する事をやめた。それにはその時期の手痛い失恋にも起因する所があるとも思うが、元々家に籠りがちだった私はいままで以上に家に引きこもり、ひたすら本を読んだ。この便利な世の中、わざわざ家から出ずともAmazon.comで本はいくらでも手に入る。かつて私は本を手に取らずして如何様に本を選べば良いのだ、などと気取った文学かぶれのような事をいっていたが、慣れてくるとこれは大変便利である、関連書籍なども表示されるし、レビューで親切にこう言う本が好きならばと押し売り同然に本を薦めしてくれる人もいる。あげく、お前が今読みたいのはもしかしてこの本なんじゃないか?などと、メールまで送って来てくれる始末。よって私の生活は近所のコンビニと家の往復に終始するようになった。かつての時代であれば、勉強熱心な学生であるともてはやされもしようが、現代でこのような所行に陥った所で現実がなにか見返りを与えてくれると言う事もなく、ただ空想と妄想の世界に没入し、折り返し地点はとうの昔に通り越し、もはや活字の奈落の底へ真っ逆さまに落ちてゆく自分の姿を俯瞰で眺めるばかりである。ライトノベルからファンタジーから随筆やエッセイ、古典や雑学本、教則本や歴史、SF、自己啓発、とにかくあらゆる種類の本を読んだ。やがて私の世界は本の中だけになり、私の目は活字を追う為だけの気管となり、私の胃は、申し訳程度に栄養を摂取する為だけのものとなった。と言う訳で、かれこれ半年ほど、コンビニに食事を買いにいく以外の事では殆ど家の外へ出る事がなくなった。


 眼前に白波の立つ海が見える。波の向こうになにか隠されているのではないかと幼い頃から思っている。私の記憶はただ、この眼前に広がる海である。あの波の向こうの穏やかな部分の、空と交わる所には、一体何があるのだろう、潮風で湿った空気のぼやける先を唯唯見つめていると何だか目眩がするような気がする。頭の周りがフアフアと浮いているような、そんな感じがする。頭の周りは私を置いて、空の遠くへフアフアと飛んでいってしまった。私の周りには私の頭の周り以外が残った。


 私にもかつては友人を持ち、大学ではそこそこの成績で講義にもわりかし出ているたちの、真面目な生徒であった、まじめにそこそこサボり、まじめにそこそこ人付き合いを行い、真面目に提出日前日からレポートを書き出したりもした。酒も飲み、ただ友人とたわいもないことを話すと言う目的の為に話した。私はそこそこの人間であった。そこに関しては、今も変わっていないと思う、私はそこそこの人間である。

 本を読みふけるようになって、睡眠時間もかなり減った。いざ寝ようと思って布団に入っても、寝転んで文庫本を読んでしまう、活字を追っていると、頭の中に出来上がった空想の世界を、脳が現実と勘違いするのか眠気はふっと何処かへいってしまう。クラートゥという宇宙人がやって来て、地球が滅亡するのではないか、と人々が恐怖に怯えているさなかに、おめおめと眠ると言うのはなかなか出来ないものだ。だから私の本を読むペースはなおさら早くなった。

               

 その日もまたぼんやりと本だけを読んで過ごした。カーテン越しの外から夕暮れの光がやって来て、部屋を赤く染める。
 珍しく夢うつつでぼんやりとしながら本の活字を目で追っている。夢で私はパリに居た、巴里の私は陽光のさすカフェのテラスでカフェオレを飲みながら本を読んでいた。巴里の乾いた空気とカフェオレから立ち昇る湯気が何だか不釣り合いで、私の鼻先をじっとりと濡らす。私は売れない画家で、巴里のモンマントルの坂の中腹、石造りの寒い集合住宅で、フランスパンをかじりながらほそぼそと生活していた。寒い冬をどうにかやり過ごして、過ごし易い春の陽気は私の心を幾分か朗らかにした。陽光と言うのは心の氷も溶かすのであろうか。
絵を描くというのはある意味で精神の格闘である。誰かに対して認めてもらおうと言う試みである。そして絵描きと言うのは一般のレールに沿って評価されることを是としない人間である。故に絵描きは波打ち際で葛藤する釣り人のようなものだろう。漁師になるでもなく、陸に上がって働くでもなく波打ち際で釣り糸を垂れる。赤いうきが水面を揺らす。ぐんとうきが水の中へ引き込まれた。


 ドアを叩く音が水面のたゆたいを乱す。騒々しいインターホンの音に辟易してインターホンのスイッチは随分前に取っ払ってしまった。ドアを叩く音の感じからして、恐らく佐川の配達員ではあるまい。かといってこの無遠慮さは宗教の勧誘でもなければ、水道局の検針やNHKの集金などでもあるまい。佐川運輸の配達員と、近所のコンビニのバイトのややぽっちゃりとしたお姉さんは、今や投獄されたマルキドサド以上に限定的になった交友関係のほとんどをしめる存在である。その二者のうち一つである佐川の配達員のおっさんのノックの音をこの私が聞き間違えるはずがない、では果たして誰であろうか。
私は恐る恐るドアの覗き穴を覗いた。
私はそこに映し出されたぎょっとするほど大きな目を見た。
「おや、どうやら生きているようだ」
大きな目が瞬きしながら声を出した。私は仰天して危うく声をあげそうになった。何が危ういのかもよくわからないが。とにかく仰天していたのである。なぜ先輩がここに?

               

 先輩と私は大学の一年生の時に出会った。
先輩はその時四年生であったが、何やらずいぶんと良くしてもらった記憶がある。そもそもの出会いは一年生の頃の外国語の講義にさかのぼる。グループワークで同じ班になった彼の至極面倒臭そうにしている顔をよく憶えている。私と違い文学科の学生であった彼の話術は巧みで、面白いと言うよりは延々と人を煙に巻くような喋り方をするのであるが、そんな彼の不可解さにも引かれ私からふと声をかけた。はじめどんな話をしたかは、もはや記憶の奥底で思い出すことも侭ならぬが、とにかくそれが先輩との出会いであった。大学生という言うなれば大人の階段を上る渦中にある人間にとっては、三年余計な年を経た生命体である四年生という生き物は、何やら神秘的に見えたものである。というかなぜ四年生が一年生の語学の授業に毎日のように顔を出しているか謎であったが、彼の全体からにじみ出すよくわからん感じに比べれば、そんなことは些末なことのように思えた。
彼は四年生であったので我々の関係は一年で一応の終着を得るかと思ったがそうはいかなかった。
先輩は留年したのである、そして今年も留年している。

               

私はドアの覗き穴をあぜんと見つめながら随分と呆然としていたようである。
先輩はほおの無精髭をしきりになでながら、
「うむ、まあ生きているようだから、取り敢えずそれがわかっただけでもよしとするか」
そうぽつりとつぶやいて、そのまま覗き窓から目を離し、身を翻して覗き穴越しのまあるい私の視界からきえてしまった。どうやら覗き穴の明るさの案配でこちらの私がドアの前までやって来たのがわかったようである。
夕闇はもはや立ちきえて、そこには暗闇ばかりが残った。
私はどうにも釈然とせず、その日は落ち着きなく過ごした。



瑞穂さんが缶を白い頬に当てて呟いた。
「私はそんな話、つまらないわ」
「つまらない?」と闇の中で先輩が呟いた。
「つまらない」
瑞穂さんはそう言って、先に立って歩きだした。
—森見登美彦 「きつねのはなし」

               

 私が時折疑問に思うのは、だれかの日常を描いた作品になぜこれだけの需要があるのか、と言うことである。村上春樹などその最たる例のように思うが、そう思うと人間と言うのは常に自分の今の人生に不満を持っているのではあるまいか。その疑念は日頃仕事をする所余念のない私の脳内議会の、もっとも熱心に取り組まれるもの議題の一つであった。人生がつまらないと思うのであれば、なぜ彼らはその作り物の世界に行ってしまおうと思わないのであろうか。成功者はわざわざ自分の人生を感情移入しやすいようにその秀逸な文体で我々に提供してくれているのである。それにもし眼前の世界が活字だけで埋められるとしたら、私の人生と文字の羅列で構成された架空の人生に、一体何の違いがあろうか。我々は自分という閉じた世界の中のみであれば、かもめになることも、勇者になることも、恋愛の主人公になることも出来るのである。強いて言えば経験の中で唯一体験しがたいのは死の問題であるが、その問題は人類発生以来かねてからの永遠の議題であって、その膨大なけんけんがくがくの議論を拾い集め読み進めていけば、その議論が終点に辿り着く前に、自分の肉体的な問題と活字を追う速度の問題で、その議論の対象を経験することになるであろうから、そんなことは考えても仕方がない。死は誰にでも平等に世界の終わりである。

               

 暗闇の中を一人、私が立っているとする。
そこはもはやどこまでも見渡すかぎり暗闇である。地面以外には一切何もない空間だと仮定してみよう、足からはしっかりとした感触が帰ってくる、ただ、壁と言うものは存在しないのでわざわざ手を前に出して物に当たるかもしれないなどと言う心配はしなくていい。音もしないものとしよう。匂いも無しだ。そうするとどうであろう、私の信ずる唯一のものは両の足から帰ってくる感覚、ただそれだけになる訳である。こんな状況になったら、一体人はどうなるであろうか。私は恐らく、とんでもない地面フェチ、床フェチになるのではないか、と考えるのである。限定された状況と言うのは人間の行く末を規定する。故に何でも出来ますよ、お好きにどうぞ、と本当に言われてしまった時、人は自分の殻と言うものを利用して、何処かに閉じこもらざるを得ないのではあるまいか。そして本質的に自由な人間と言うのは、他人から束縛されることをおおいに恐怖する傾向がある。無限の可能性を限定されることは、万能感の欠如である。それは大きな喪失であろう。では喪失しないためにはどうすればよいのか。
それは皆目見当がつかない。

               

人はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか。生まれてから死ぬまでのあいだ、人はなぜいつもいつもデジタル時計をはめていたがるのか。
—ダグラスアダムス「銀河ヒッチハイク・ガイド」

               

 だれにでもくせと言うものはある。
友人にとにかく手があくと髪の毛の先をいじる。と言う奴がいた。
大学の講義中に気になったので20分ほど観察していたことがあったが、とにかく彼女は手持ち無沙汰になると自分の髪の先をつまんで目の前に持ってきて見つめてみたり、捻ってみたり、時には口に含んでみたりする。髪の毛がちょっとパーマしているのはそのせいかな、などとまで思うほどである。当人は無意識であるのであろうが、くせと言うのは端から見てると面白いものである。

 私は時に部屋で一人でいる時に手持ち無沙汰になると、とにかく何かを触ったりするくせがあるようだ。改めて意識してみるとこのくせにはパターンが存在するようであり、大体はあごのあたり、その次に耳の上あたり、そして頬をなでる。こう言った一連の流れがもはや完成している、と言うことに気づく。無意識恐るべし。

 私はかつて煙草を吸っていた。今はもうすっぱりやめたのであるが、その時にマッチをまとめて買ってしまったために、未だに本棚の三段目の文庫本の前のあまり幅に、いくらかのマッチ箱だけが残っている。たまにはタバコと言うものが恋しくもなろうが、いかんせんアレは高い、一箱で文庫本が一冊買える。私はとにかく知識を所有する、という所に目がいきがちな人間であるのであまり図書館などは利用しない。と言う訳で今の私の部屋の惨状は目にあまるものがある、神保町の整理の行き届いてない古本屋もかくや、という本棚からの本のはみ出しっぷりは、持っていく所に持っていけば、ある種のオブジェとして芸術的価値を認めてもらえるのではあるまいか、という気にすらさせられる。

 何だか本を読んでてしんどくなってきた時に、ふとマッチの箱を一つ取り、箱からマッチを取り出して一本おもむろに擦り、火をつける。リンの匂いがじとりと眼前に広がる。そうすると活字の中にどっぷりと入り込んでいた私の意識が急に自分の眼前に立ち戻るような気がする。じりじりと燃えていくマッチの先端を眺めているとなんだかいろいろなことを考えさせられるものである、マッチ売りの少女と言うのは、或はこういう心持ちでいたのかもしれない。こうやってマッチが燃え尽きるまでのあいだ、何かと様々な物思いにふけるのである。

 マッチと言うものは棒の先端についた化学薬品と、ストライカーという箱の横部分にあるざらざらした茶色い部分に塗布された化学薬品が反応を起こして発火する。この知識はめずらしく本から手に入れたものではなく、先輩から教わったものである。A4くらいのサイズストライカーのシートを私に見せながらこのうんちくを語ってくれた先輩の姿をありありと思い出すことが出来る。そう言えば先輩はどこでもハンチング帽をかぶっていたように思う。彼はとにかく多趣味な人間で、その趣味の一つにマッチ箱作りと言うものがあった。彼は厚紙を箱になるようにはさみで切ってそこに絵を描いてマッチの外箱をそっくり自分でつくったものと入れ替えてしまうのである。先輩は絵心もあって、そのややがっしりとしたガタイとは何だか不釣り合いなかわいげのある動物の絵などをちょいちょいと描いていたのを憶えている。ふと思い出して台所へ行き、食器やらが無造作に積み上げられた棚の下の引き出しを探ってみる。随分と懐かしい、そこには先輩の描いたピンク色のワニの絵が描かれたマッチがあった。私は多少湿気ってしまって具合の悪くなったそのマッチを擦り、火を起こしてみた、リンの匂いが眼前に広がる。ゆらゆらと揺れる火を見ながら私は何だかこのままでいいのだろうかと思った。
良いはずがない、しかしこのままでも良いのではないか? とも思ってしまう、このままだって、悪いことはない。
 オッカムのカミソリだったか、ああ違う、チェーホフの銃、だったと思う、物語にもし拳銃が登場したのであれば物語のいずれかの段階で発射されなければならない、という考え方である。しかしこのマッチは、今後そんな重要な意味性を帯びてくるとは私は思わない。

               

「わたしはかもめ」
—ワレンチナ・テレシコワ 

               

 ゆらゆらと揺れる木漏れ日のなかで私はすっかりいい気分でひるねをしていた。雲一つない青空は、私には何だか眩しすぎて空を直視することが出来ない。むしろ私が意識しているのは背中の下にある地面である。日差しを私に遮られた地面は何だかじっとりとして、またひんやりとしているように思う。ちょっと背筋を伸ばして頭の上の木の幹に目をやる。てんとう虫が一匹とまっている。てんとう虫はがっしりした形の割に、軽すぎる。私は何だか不安になった。

               

 漫然と机に向かい、ただ漠然と本を読む、この行為は常に自分との戦いである。つまり、外に出たい、とか、他にするべきことはないのか、とか、果たしてこのままでいいのか、とかそういうぼんやりとした不安との戦いである。彼の大文豪はこれをこじらせて死んだりした訳であるが、果たしてそれにどう対処したら良いのかわからない、考えたくもない。

「曖昧模糊」と言う言葉がある。
この言葉のいい所は、言葉の意味以上にこの「あいまいもこ」という響きが、もこもことして何だかつかみ所がないもののような感じがする所にあると思う。綿菓子みたいなそう言う感じであろうか。あるいは昔触ったリスのそれに近いのかもしれぬ、リスは見た目はもこもことしてかわいらしいが、いざ触ってみると、肋骨やらが思いのほか近くにあり何やら思ったよりもごつごつしていた、手のひらで包み込めば暖かかったし、このまま力を込めれば握りつぶせるのではなかろうか、とも思えた。リスについてはっきり言えることがあるとすれば、それはあまり人になつくことがなく、歯は鋭く噛まれると痛い、ということだけである。私はそのとき噛まれて、大変痛い目にあった。

               

 夜半、腹が減ってコンビニへと出かけた。コンビニは私のアパートから駅を挟んで反対側にある。夜風が贅肉のないしなやかな身体、もとい、筋肉すらない虚弱な身体を冷やし、腹にこたえる。私はコンビニへ出かけた時には大体海苔弁を買う。コーラ味のガム。ジャスミン茶。ジャスミン茶の良い所は味のあまりない所である。口の中に甘い味やらが残るというのは気持ち悪い。私は昔ココアの粉が大変好きで、一時期はココアの粉だけを食して生きてきたが、口内が大変甘ったるくなるのと、虫歯に悩まされたためやめた。コーラ味のガムを買ったのは、人間、そうはいっても糖分は必要である、ということを意味する。この時間は必ずおなじお姉さんがバイトをしている。ややぽっちゃりとしていて笑顔のすてきな女性である。若い身空の女性がこんな夜中にアルバイトなど、大丈夫であろうか、と心配になるのだが、ここは日本だしそんなに不安に思うこともないのかもしれない。女性は一言
「あたためますか?」
と聞いた。私は、
「結構です。」
と答えた。

               

ぼくはこの未来世界の惨状は、彼らが自ら招いた罰だと考えて自分を慰めた。人間は同胞を搾取し、必要性という言葉をスローガンに、安逸の生活を送ってきた。しかしやがてこの必要性という怪物に復讐されたのだ。
—H・G・ウェルズ「タイム・マシン」

               

 虫がいる。私は虫が苦手である。ゴキブリが好きというものはなかなかおるまいが、何にしても私はとにかく虫というものが嫌いである。ちょっとカブトムシを手の上に乗せてみてほしい。うごうごと手の上で動くだろう。この甲虫と目を合わせて語り合ってほしい、恐らく奴は何も語りかけては来ないだろう、しかも飛ぶ、当たると痛い。そしてなんとか捕まえてプラスチックの飼育ケースにもどしてやるとその黒い、まるで何も読み取ることの出来ない目を持った生き物は、ちうちうとカブトムシゼリーを吸うのである。かつて純粋な瞳を持った私はカブトムシの気持ちにより親身になるためにこのカブトムシゼリーを食べてみたことがあったが、匂いの割にあまり味がせず、しかももちゃもちゃとして生暖かく、なかなか飲み込むことの出来ない。とにかくこんなものを食っている生き物とは生涯仲良く出来ないだろうと思い、飼育ケースを公園に持っていって、すみの方でひっくり返した。特に思いやりもなくひっくり返したのでカブトムシはこんもりと盛り上がった土の下敷きになる形になったが、しばらく見ていたらカブトムシは土の中から出てきた。ケースは公園の水道できれいに洗った。洗い終わってまた土の山を見るとカブトムシはもう何処かへ行ってしまっていた。あんな何を考えているかわからない生き物と生活し、あの瞳で見られているというのは、どうしてもいいのかわからなくなってしまうものだ。無論カブトムシを勝手に逃がしたので、まだ幼かった弟はさんざん泣いた。許せ。


 ときにカブトムシはなぜ日本に一種類しかいないのか、クワガタムシは数種類いるのになぜ。とある本で読んだがそもそもクワガタムシはクワガタムシ科を形成しているが、カブトムシはコガネムシの亜科で、コガネムシの三分の一はフンコロガシらしい。つまり母数がもう違うのである。しかしカブトムシだってそれでも何百種類もいる訳であるから、いったい日本でどのような淘汰が行われたのか。それを想像するとおそろしい、カブトムシは昔他のカブトムシをヒトラーのように虐殺でもしたのだろうか。生物学を専攻する友人は、多分日本に来たのがたまたま、あのカブトムシだけだったんじゃないか?と言っていた。カブトムシに取ってこの国は。争う同族のいない楽園であったのであろうか。

               

 人は常にものの状態を変えることによってその変化を記憶し、変化そのものに価値を、意味を見いだすものだ。情報というのは変化の蓄積である。例えば、今あなたがこのページの上の端をつまんで、ちょいと折り曲げてみるとする。そうすることによって、このページには何かしらの意味性を帯びることになる。これはあくまで自分に取って、このページは特別である、と言う順列の問題である。私はまた読み返したいフレーズの存在するページほど、深く折り目を付けると言う自分の中でのルール持っているが、これはあくまで自分の中のルールである。しかし人間というのは面白いもので、これを他人が見た時に、感情移入という方策でもって、この本についた折り目の意味性を推理することが出来るのである。フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」ではネクサス六型という「外見や行動では人間と区別できない」精巧なアンドロイドと、人間を区別するための手段としてフォークト=カンプフ感情移入度測定法と言う、動物や生命に如何に感情移入を行い、生命が失われる、「死」と言う概念に対して、一種の生理的嫌悪をもよおすかどうか、というテストを行っていたが、一般に人間が推理、と定義するものは、如何に他者に感情移入し、かつ合理的思考によって、行動の枝葉を取り払い、さらにその合理性も取り払い、感情も取り払って、やっとそこに残った貧弱な情報の枝葉をみて、これぞ真実、と納得するのである。真実というのは常に、わずかな情報、出来れば一言で言い表されねばならない。なぜならば長ければ長いほど屁理屈に付け入られる隙があるからだ。ゆえにかつてイギリス人は真理とは「四十二」である、と言った。これは矛盾の発生しない強い真理ほどもはや枝葉が取り払われてしまいすぎて何の意味も成さない、という良い例である。あるいは昔の哲学者は、とにかく文章量を多くし、難解な言葉を使い、回りくどい書き方をし、もはや生涯のほとんどを費やさねば読めないようなものを真理と定義した。これはとても素晴らしい効果を発揮したものである、なぜならば、それは読むのもめんどくさければ。理解するのもめんどくさいし、ましてやその素晴らしく長い文章にいちゃもんをつけることなど、さらに面倒臭いことである、ということを、だれもが理解したからである。その真理の文章は、一般には聖書と呼ばれる。

                ○ 

「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」(我が神、我が神、なんぞ我をみすて給いし) 
「マルコ伝 十五章」

               

『おれはこれまでいっぺんも人間どもによくしてやったことはないし、人間どももいっぺんもおれによくしてくれたことはない。だったら、なんでおれは人間どもがうじゃうじゃいるところへ自由になりにいくんだ?』
—カート・ヴォネガット・ジュニア「タイタンの妖女」

               

 この辺りで少し、私のかつての思い人のことを書こうと思う。
出会いは大学一年生の頃であったと思う。何と言うか、一目惚れであったように思う。どういう状況であったか、今ひとつ鮮明に思い出せないのであるが双方顔色に酒精の痕跡も消え入らぬまま、紅い眼鏡の似合う彼女と並んでラーメンを食った、と言う事実は憶えている。彼女は俗にいうオタクというものに分類される人で、私のような旧態依然とした文学オタクとは違った、独特の雰囲気を持っていた。高校の頃所属していた文芸部は、どちらかと言うとそのような人が多く、いろいろとそう言った傾向のものを見せてもらう機会も多かった私は、その方面にも十二分に理解があるつもりでいた、ガイナックスのアニメなどはあらかた見たし、アニメに影響されて彼氏彼女の事情と言う少女漫画なども読んだりした。彼女は何が好きなのか、それはボーイズラブと呼ばれる男性同士の性愛を愛でる作品群であった。

 兎角私はこのボーイズラブというものが苦手である、それは同性愛に対する嫌悪感でもなければ、性の対象として異性から目を向けられるという不快感などでも断じてない。私は声を大にして言いたい。
「お前らはいったい何様のつもりなのだ」
ボーイズラブというものには女性において感情を移入する先のないものである。つまり手のひらの上で必死に愛とか恋とかをささやく男同士の醜態を眺めにやつくという大変悪趣味なものである。愛とか恋を醜態と断じるのはいかがなものかとも思うが、かの森見登美彦氏も初作「太陽の塔」にて恋愛について「人々は狂気の淵に喜んで身を投げ、溺れる姿を衆目にさらす。未だ身を投げざる人々は、出来るものなら早く身を投げたい、身を投げていない自分は幸せではない、恥ずかしいとさえ思っている。断じて違う。恥ずかしいのは、溺れている姿であり、溺れたがっている姿なのだ。」と説いている。
ボーイズラブが好き、という女性(一般に腐女子と呼ばれる)と話をすると常に思うのは、「お前は神か」と言う一言であり、自分不在の世界の中で神の視点でハムスター同士のじゃれあいを覗くが如く男どもを愛でる彼女達を何だか不気味なものを見つめるような目つきで見てしまう。彼女らの求める自分不在の恋愛とはつまり裏切られるかもしれない対象への恐怖であり、新しい経験へ足を踏み出すことからの逃避であり、或は夢と自分の現状の不一致に対する逃避でもある。つまりこの趣味はとても後ろ向きなのだ。後ろ向きであるのに、彼女らは自分たちが囲い込んだ箱庭の中では神として振る舞うのである。究極の内弁慶。それが私の中での腐女子に対するイメージである。

 しかし、今や世界のすべてを活字の世界の中だけに限定してしまった私に、果たして人のことが言えるであろうか。私はもはや、私自身に取っての神でしかない。他の人からすれば、もはや人ですらないのである。私は進んでこの状況を選んだ、意識的な選択である、しかし、それが現実からの逃避でなかったと、いったい、だれが言えるであろうか。

               

「なんでだろう。わかんない。たくさん嫌だーって思ったよ。痛いのやだし、苦しいのも嫌だったよ。誰かが手を差し伸べてくれる夢、何度も見たなあ。んでも、なんでだろ」
—紅玉いづき「ミミズクと夜の王」

               

 夢で私は1羽の手負いのかもめであった。空を飛ぼうにも自由に飛べぬ、わたしは昔から空を飛ぶ夢というものを見たことがない、落下する夢ならいくらでも見たことはあるが、空を飛ぶ夢、というものとはとんと無縁である。わたしは心の何処かで、そんなことが出来るはずがない、と思っているのだ。況んや出来たとしても、私には不可能であろうと、そう考えているのである。だから私は星の王子様に感情移入も出来ぬし、稲垣足穂の言う飛行機への憧れのようなものも、理解は出来るが何処か絵空事のように考えているのである。私は、とにかく飛ぼう、と考えた、夢の中であれ、今まで出来なかったことが出来れば現状は打開される、と考えたのである。風に持ち上げられる様を想像してみたらいいかもしれない、大きな力に逆らわずに、その後押しに乗って飛び上がるのだ。私はとにかく、飛ぶことを念じた。風は徐々に強くなる。私の身体はぐらりとゆれる。身体の面積いっぱいが空気で押し上げられるかのように、浮き上がった。ぐいぐいと風に押されて私は遂に空を飛ぶことが出来た。何と、爽快な気分ではないか。私は万能感にあふれ、高みから地面を見渡した。しかし私は失念していたのである、空を飛ぶことは出来た、しかし、どのように地面に降りれば良いのか、その考えに思い至った時に、私はまさしく、真っ逆さまに墜落した。私は目を覚ました。

               

「おーい、でてこーい」
—星新一 「おーい、でてこーい」