2013年7月8日月曜日

無題


梱包芸術のルーツ
 そもそも梱包芸術とは主にクリストの作品群をさす言葉であるようだ。
「梱包されたライヒスターク」、「囲まれた島」、など包む、囲うことを目的とし、隠すことによってそのものを際立たせるという演出の手法であるように思う。これは隠すことを目的とした梱包であり、その後のジョンレノンとオノヨーコによるバギズム[1]という思想にもつながっていく。彼らは有名人である自分をバッグに詰めることで大衆の前から隠した。

 箱に梱包する、箱そのものを作品とする、という思想はデュシャンの「トランクの中の箱」やウォーホルの「ブリロボックス」などが有名である。前者は箱を中の詰まったものとして扱い、後者はブリロという本来なら洗剤の詰まっている箱の箱のみを制作することによって期待された内側の密度への裏切りのようなモノを内包している。また、ルーカスサマラスやジョゼフ・コーネルなど、箱をテーマにした作家なども多い。行為芸術家、海容天天という作家が自分自身を鉄格子の中に梱包するというパフォーマンスを公開したが、これは仕舞われることと見られることのせめぎ合いの中にあるパフォーマンスであるように思う。また北京の前衛芸術家・也夫は建物の壁面に透明のカプセルのようなものを取り付け、そこで公開された状態で半年間生活を行わせる、という「人間ミノムシ」という作品を公開した。梱包芸術の集成的な作品はハイレッドセンターとして活動していた時期に赤瀬川原平の制作した「宇宙の缶詰め」がある。これは蟹缶をあけて中身を食べ、外側のシールを内側に貼り直し再びふたを閉じることで、宇宙すべてを梱包した、と言い張る作品であった。

 人を箱に梱包するという発想は文学の世界でも多く見受けられる。これらはかくれんぼという擬似的な死の記憶であるとか、囲われた空間に仕舞うことでの所有の意志を示す、あるいは、押し入れに仕舞われると言った幼少期の記憶の再現であるものが多いように思う。
 作品としては箱の中からの情景を主観で語る安部公房の箱男や少女の四肢を切断して箱の中に仕舞う連続猟奇殺人を描いた京極夏彦の魍魎の匣などがある。

 アクリルケースに仕舞う、という作品は、近年では現代駄美術二等兵によるどーしようもないダジャレのような作品をアクリルケースでショーウィンドウのように梱包することによって、額装した絵のように付加価値を付随ずる、という作品群であった。その中でも「狭い」という作品は大変面白く、本来のものよりも少し首を傾けたミロのヴィーナスのミニチュアが、その頭ぎりぎりの高さのアクリルケースに仕舞われている、という作品である。
ダミアンハーストのNatural Historyは樹脂によって切断された牛や豚などを固めた作品である。

 梱包という発想は芸術作品をホワイトキューブという限られた空間の中で作品を展示していくというスタイルそのものの反芻であるようにも思われる。MOMA以降の白い箱状の空間に作品を展示していく、というスタイルそのものへの反発であるように思われる。箱の中で箱を展示するというマトリョーシカ的構造は、美術館という箱に飾られることによってゴミが一定の価値を持つというダダ派の提示した一つの価値観に依拠する。
 だから現在の芸術に必要な価値はただ“そこにあることの意味”であるように私は考える。

コンセプチュアルアートについて
 19601970年あたりに起こったアイディアアート、概念芸術、とも呼ばれる思想。ルーツはデュシャンのレディメイドにあるのではないか、と思う。グリーンバーグが抽象表現主義をアメリカ芸術がヨーロッパ芸術を乗り越えたと評したがその潮流に対する反発としてネオダダが起こり、デュシャンが再評価されることとなる。コンセプチュアルはネオダダの一環として起こった潮流である。現代美術はよくも悪くも、このコンセプチュアルという思想におかされているように思う。これらはつまり文脈、理解を前提とする考え方で少なくともキャプションなしにわかりやすい芸術というものにはならないように思う。


バギズム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%AE%E3%82%BA%E3%83%A0