2021年9月7日火曜日

オートノマスな物語生成機について あるいはハツカダイコンに関して

 「あの部屋に誰かいた?」 −スタニスワフ・レム「ソラリスの陽のもとに」

 ふと自分が大学というものに10年所属している、という事実に気づく。

ちょっとした長方形を想像してみて欲しい。その長い方の辺の中心にまず折り目を入れて印をつける。そしてそこを基準にして、紙飛行機を折る時の要領で三角形に畳む。片方の折れ目を元に戻して、斜めに折られて残った折り目の中心に、ちょうどバツ印になるように対角の折り目を作る。そしてその円の中心を基準にして37度、右に4センチ先に鉛筆で印をつける。

 目の前の風景は目まぐるしく変わるが、自分自身というものは変わっていないと思ってしまうのは、そこに確固たる自分がいる、という信仰があるからだろうか。

 それとも人は本質的に変わることができない、と信じているからだろうか。それは些か悲しいことだ。

 少なくともここ20年ほどは人類というものは進歩していて、世の中は幾分にも過ごしやすくなったかと思う。少なくとも痰壷はなくなった。物語というものは嘘なのだと信じられるようになった。信じるべきものは本来何もないのだ、ということも、いくらか理解されてきたのではないか。

 コインを投げると2分の1の確率で裏か表が出る、と信じられる。確かなことだ。

 少なくとも、目の前のコインは垂直に立っている。表でも裏でもないが、コインを90度回してみれば、表か裏に見えるかもしれない。


 1.さまざまなテクストについて −マルティン・ハイデッガー「芸術の根源」

物の物体性、というものが本当にあるのか。甚だ怪しいものだ。と思う。

 円を無限に分割することのできる機械は時計として機能しうるか。というのは考えるに値することだ。多分それは時計という名前になるだろう。少なくとも、デジタル時計ではない。

 空間を二つに分割するものがメトロノームになって、空間を二つに引き裂く音がリズムになる。物しか信じるものがないなら、世界は多分そう見えるはずだ。

 分け隔てることで理解する以外の理解の仕方があるだろうか。

何かを記録することはなにかを破壊することなのだ、というのをある展覧会で示唆された時に、破壊しない記憶の仕方、というものはあるだろうか、と考えたが少なくともパッとは思いつかなかった。(例えば、何か、生き物が増える、というような単純な計数上の変化でもいい、その場合、子を持った親は、子を持つ前と同じだと言えるだろうか? 少なくともその観点は些か、失礼なように思えるし、やはり、以前とは違う何かとして以前の形質を毀損されているように考えられる。それが例えば喜ぶべき変化だったとしても、前の状態は失われているのだ。損失、ないし喪失であることには違いあるまい)(ところで、多分僕が文中にカッコを使ってこういう文章を書くのはかいけつゾロリの影響だ。)

 陶片はそこに印を刻み付けたものたちの死んだ後にも残り続ける。文字というものは全て、死者との交信である。エジソンは晩年霊界との交信を試みたという。今の視点から見れば、滑稽に映るかもしれないが、そこにいない人間の声が残るレコードや、そこにいない人間の声が聞こえる電話機は、そこに幽霊がいることと本質的に同義だ。

モールス信号は、本質的に0/1の通信の規格であるとともに、人間の痕跡、根源的な、触覚の繋がりの装置だ。

気配が全て知覚されうる / 気配以外は存在し得ない

情報は痕跡で、少なくとも、自分に届く頃には過去の情報だ。一生僕たちは現在に接近し得ない。

書けるもので書かれた書くことのできる物語というのが、少なくとも本に書いてあることの全てで、書けないものは書けない、多分本質的に書けないものがある。

書けないなら書かなければいいのだけど、書けないから書いてしまうのだろう。

少なくとも、正解なんてなくて、それは常に、一番“確か”らしい、ということだ。

確からしさのために人は無限に時間を使って、少なくとも、猿よりは早く、ハムレットを書き上げた。猿もそろそろハムレットの一章あたりは書き終えた頃だろう。

人間はランダムの偏らせ機なんだ、と考えた時に、少なくとも猿よりは優秀なんだ、ということがわかる。人間にとっては。

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