関係性の可能性。
- possibility of connection -
そこで、どの物体もそれに接触しているものから影響を受け、そのものに起こるすべてのことをなんらかの仕方で感知するばかりでなく、自分に直接接触している物体を介して、この物体に接触している別の物体のことを感じるのである。
ライプニッツ 「モナドロジー」(1714) ライプニッツ著作集[9] 後期哲学 西谷裕作+米山 優+佐々木能章=訳より引用。
心音というパーソナルな情報をデバイスによって外部化する。
身体の接触による他者の認識。
関係性の可能性。- possibility of connection -は
心音という個人的な情報を電気信号として外部化、可視化し、二人の演者の接触非接触の関係によって、人体を用いて電気的コミュニケーションを行い、視覚化できない人と人との関係性を表現する作品である。
わたしのからだにとじこめられた ほんとのわたしは泣いている
寺山修司 「寺山修司少女詩集」(1981)
この言葉の前には「もしも 虫眼鏡の探偵がやってきたら わたしをさがしだしてください」という言葉がある。
つまり、わたしは、泣いているわたしを人に伝える手段を持っていない。
内部の、人間の考えや想いは、言語化、或は何かしらの表現の表出としてでしか、人に伝わらない。
古代中国やギリシャなどでは、かつて心は胸の中、すなわち心臓に宿ると考えられてきた。
心のささやきを心臓の脈動に託し、心音を音と光として外部化することによって、自らの心の揺らめきを可視化、可聴化し、それによって、自らの心、すなわち普段は羞恥やプライドによって覆い隠されている心の動きを外部化することを目的としている。
心音を電気的な信号に変換した後、そのパルス信号を身体に受けることで、
体表に電位をまとい他者と肉体的な接触をすることで視覚的にはただ触れているだけ、と見えるが、体表から流れる電気信号は、接触部分から相手に伝わり、相手の身体に流れる生体電位に干渉し、被接触者の持つ電球の明滅が徐々に接触者の心音のペースと同じ速度へと変化していく。
これらの表出によって、人と人が触れ合うときに感じる接触以上の何か、言語のみでなく、非言語領域で通じ合う定量化しにくい何かを表現とすることが、この作品の目的である。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんないつしょにせはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈のひとつの青い照明です
(ひかりはたもちその電燈は失はれ)
宮澤賢治 「春と修羅」(1924)
2014年4月25日金曜日
2014年4月22日火曜日
メモ
質問
三輪さん
Q
クワクボ先生の指摘の作品が理解できる、できないということと、高周波が認知できるかできないかということの説明が結びつけて説明されていたが、それは全く別次元の話で論理が破綻している。
A
こ
の部分に関してはそもそもクワクボ先生との面談中に出てきたアイディアでもあり理論の飛躍は存在するものの、クワクボ先生と後ほど話し合った結果、引用部
分に無理があり突拍子のないものになってしまっているが、言わんとすること自体はわかる、という意見をいただき、クワクボ先生とのコンセンサスは取れてい
ます。
むしろ問題点はこの、認識と認知の問題を構造的につなげるという部分の理論的な飛躍の問題をどのように繋げるか、という部分にあると思う、この問題は制作を進める上で重大な問題となるので、これまでの制作との関係性も含め、今後考察を深めて行きたい。
吉田先生
Q
子供が体験できて大人が体験できないということについて、モスキート音以外にそういうものの可能性はどれくらい検討したのか
A
聴
力以外だと動体視力、というものがまずあるだろう、ということで、具体例で言うと、これもまたクワクボ先生の体験からのお話なのですが、蚊を探す、という
ときに、子供は見えるけど大人の動体視力ではもはや飛んでいる蚊を追いかけるということができないので子供に蚊を目で追いかけてもらって、そこにいる、と
教えてもらって大人が叩く、というような連携が起きた、という体験談や、後は注意力、これは聴力、視力にたよらない部分でも、普段大人が気をつけないよう
なことに対しても、子供というのは目新しさを持っている訳で、つまり、あ、これは知ってるな、こういうことだ、と脳が処理してしまう、そういう事例でも、
じっくり見て、理解するという行動が付随する訳で、例えば当たり前だと大人が思っている現象にちょっとしたフェイクを混ぜておく、と、で、そのフェイクに
よる違和感というものをより早く感知するのは子供なのではないか、という考え方ですね、ほかにも床に這いつくばる、とか、汚れることとか、そういうことに
対するイニシアチブって言うのは子供の方が強く持っていると考えられる訳で、例えば120センチの高さの入り口、というようなものを展示会場の入り口に設
置した場合、大人はわざわざかがまないと入れないけど子供はすっと入れる、というような、この辺りは如何に鑑賞という行為を行動にかかるストレスでふるい
分けるか、というような趣向になる訳ですが、このような方向性での大人と子供の分化、ということも可能であろうと考えています。
Q
そ
ういう意味では身体能力や認知力、経験大人は知っているけど子供は知らない、逆に子供は知っているけど大人は知らない、子供の世界にありうるもの、という
ものを使う、それはキャラクターかもしれないしマーキングかもしれない、はやり言葉かもしれない、そういうようなものもあるとは思うのですがその辺りは考
慮はしないのですか?
あ
まり遊具寄り、つまり子供に迎合しすぎる形での作品制作は考えていません、例えばポケモンを使う、というような子供の方が知識的イニシアチブを握っている
ものを用いるというのはかなり具体的な子供を大人を分化できる手法になると思います、しかしこれは流行に乗っかる訳ですから、作品の普遍性、という部分で
はかなり虚弱なものになってしまうという問題点を抱えています。つまり、この時代に子供時代を過ごしたこの世代にしかクリティカルではない作品、というも
のになってしまう。
アニメや漫画などの問題点として、これは実際小学校や幼稚園などで、絵を描かせるとポケモンなどのアニメのキャラクターを描いてくる、という問題がある、というような話をTVやネットの記事などで見かけることがあります。
僕
の弟の世代なんかでもそうですし、僕が中学校の頃とかにもあった問題ですね。これは一種大人の意図しない答え、として教育者や親なんかからは忌み嫌われる
のではないか、と思うのですが、もっと根っこの問題として、大人がアニメやゲームに変わる、より強いリアリティというものを提示できてないということが問
題であると考えています。キャラクターというのはリアルの要素をデフォルメ、つまり強調して作られたもので、言い様によっては、よりリアルな存在とも言え
るのではないかと僕は思うのですが、つまりあれらの作品というものは、如何に子供に受容されるか、という点において非常に洗練されたものとなっている訳で
す。この辺りは努力と報酬やゲーム性の話とも絡み合ってくるので深くは掘り下げませんが、本能により訴えかけるもの、つまり、人間の本能というものは現在
かなり解析されてきていて、その本能に如何にストレスなく受容させるか、という方向性でデザインされたものというもので世界はあふれ返っている訳です。親
や大人というものは、結局保守的なもので、山登りや鬼ごっこみたいな、身体的な遊びやより原始的な意味での自然とのコミットみたいなものこそ情操教育によ
い、と考えがちなのだと思うのですが、その辺りは子供も社会性を持った人間である、という前提によって否定されつつある、つまり、大人に比べて時間がある
子供時代にそのような経験をさせたい、というのが大人の意図であると思うのですが、社会に生きる子供にはそんな時間はない訳です。
如
何にクラスメートと共通の話題を得るか、如何に学校という社会の中で社会的に生きるか、という問題に謀殺されてしまう。それらの問題点を深めたうえでの問
題提起としてそういう作品を趣向するのであれば、それは十分作品として強度のあるものが制作できると考えますが、現状の考えではあまりそちらにコミットし
ようと言う意図はありません。
快
感原則という言葉がありまして、人間が快感を受容するパターンというのはある程度統計のもと規則化されてきている訳ですが、小説よりもライトノベルが娯楽
として優位を占めてしまう、新聞よりは小説が、ドキュメンタリーよりは映画が、というように、水は低きに流れる、とも言いますが、こと娯楽、というジャン
ルではその辺りの理解、解明が進むにつれて、よりこらえ性のない人間でも受容できる、教養のない人間でも楽しめるもの、という方向性にどんどん発展して
行っているように思います。そういう意味では娯楽を志向しすぎると芸術作品としてのメッセージ性はどんどん希薄になる、と私は考えておりまして、その辺り
は要再検討の必要はありますが、今回の発表の段階では、その方向に流れることは考えていない、ということです。
前田先生
Q
自作スピーカーについて、磁石を近づけると音が鳴る、というところでその、子供の話とスピーカーのような現象の興味という所が分離しているという部分に関して説明してもらえないか。
A
現状ではこの部分の感覚的な乖離の問題は解決できていない。
こ
れらは制作過程、特にアイディアの最初の段階であった音を探し、その音が鳴っている所へアプローチする、という鑑賞手法に対し、アフォーダンス、つまり、
如何に自然な形でそのような動作を観客に行わせるか、という問題点の解決策として出てきたアイディアでもあり、音が鳴っている所に手をかざす、というよう
な行為の不自然さを解決する手法の一つとして出てきたという背景があり、一つの問題を解決しようとした結果また別の問題が発生している、という側面があ
る。この問題はもう少し構造を工夫することによって解決できるのではないかと、この問題は今後の課題として大きな比重を占めていると考えています。
Q
年次制作のときの電球を介してコミュニケーションを取る、という作品「関係性の可能性」との連続性、この作品はどういう風に位置づけられるか。
A
前
回中間発表の人と人との関係性を如何に表現するか、というアイディアはレイヤーとしてはかなり直接的なレイヤーに依存していた。つまり、身体接触という直
接的な関係によって人間の関係性を定義しようとする試みであった。今回のアイディアではより高次のレイヤーでの物質と人の関係性から人と人との関係性を模
索する、という、前回の体験型の手法で問題となった個人差の問題、人間の不確実性を排除しようという考えから発展している。
も
ともとパフォーマンスからこのような形態の作品へとシフトしようと思い立ったきっかけは、インプロヴィゼーション、つまり即興演奏を伴うパフォーマンスで
は行為すべてに意味性が発生してしまい確固とした作品構造がなくてもそれなりに作品として成立してしまう、という身体表現という表現に依拠したときの構造
の強さに頼った作品制作から一度脱却したい、という考えから始まっている。
これらの問題を解決する上では三輪先生から作曲、という選択肢もある、という提言をいただいており、今後考察を深めて行く必要を感じております。
小林茂先生
Q
作家の例を挙げて、こんな作品の例がある、~型~型、というような提示をしているのですが、これは何のためにまとめたのか
A
現
状作品の表出方法について悩んでおり、それを解決する上で、メディアアート作品がどのように定義されているか、という部分への考えをまとめたく思いメディ
アアート作品としても評価の高いこれらの作品を分析してみる、という試行錯誤の一環として考えていたもので、後ほどの教員の方々や学生とのディスカッショ
ンもふまえると、今回のプレゼンには必要のない部分であったようにも考えられる。
Q
前の人がこうやってるんで、それをふまえて上でこれと同じような制作方法をとれば面白いものができるだろう、という方向性のことではない?
A
そういう意図ではなく、あくまでも思考実験、勉強としてまとめたもので、これらの情報をプレゼンテーションシートに掲載したことで混乱が生じたことは申し訳ありません。
Comment
発表する上でのレイヤーというものがあると思うのですが、前半の話を後半の話はレイヤーが違う話になっているので、その当たりを人に発表として聴いてもらう、という場合にはもっと整理して発表した方が伝わりやすいものになるだろうと思う。
Q
個人的な子供のときの原体験というものがあって、その、子供の方が優位、という状況のようなものに面白さを感じて、今回の作品を考えたのだと思うのですが、ここで言う大人と子供、というものは何を指しているのか。どこに境目があるのか。
A
最初のイメージとしては親と子供、ということでした。
大
人と子供というのは年齢でパッキリ区切るようなものではなくて、もっと相対的なものを志向しています。大きな意味で言うと、知っていることと知らないこ
と、判断できることとできないこと、受容できることとできないこと、という意味で、精神的な成熟、というニュアンスも含めようとしていたように思います。
現状の社会における大人の定義の複雑化などの問題もあるが、今回のプレゼンでは、明確にこれをもって大人、というような区分を策定することを目的としてい
る訳ではありません。
コ
メントでは上下関係というものにも言及していただきましたが、この辺りの大人と子供、という部分をどのように定義するか、に関しては考察の余地が多く、実
際の経験や、モスキート音が今までどのようにして用いられてきたかなどもあわせて調べ、考察して行きたいと思っています。
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