作品をアーカイヴする。これは芸術の範疇などでは大きな議論のある言葉である。
エンターテイメントのジャンルで言えばアニメーショ
ン作品なら、DVD、BD化されて、参照可能になること自体は一種のアーカイヴ化の完成と言えるだろう。本で言えば全集、総集編なども一種のアーカイヴで
あるし、単行本という形式も、週刊、或は月刊連載された断片のアーカイヴ化であると言えるだろう。
何かをアーカイヴするときに問題となるのはアーカイヴにどの範囲まで含めるのか、そして、どのような手段でアーカイヴ化するのか、ということである。一次
情報がそもそも記憶可能な形態として発信されるものであれば、その一次情報そのものを保存しておけば良い。しかし、芸術作品で言えば、場所と時間、共時性
に支えられたパフォーマンスアートを映像記録したとして、それはその作品そのもののアーカイヴと言えるのか、という問題がある。
どこまでを作品と捉えるか。具体的な例で言えば、ジョン・ケージの「4分33秒」は、無音の4分33秒そのものが作品なのか、楽譜を含めるのか、あるいは、ステージ上で上演された空間そのものを作品と捉えるのか。
「4分33秒」は一般に、聴衆のざわめきも含めての音楽作品とされている。
となれば、客席と観客のざわめきを含めて作品とするのか、或は映像での上演を前提として、映像の聴衆のざわめきを再現する空間そのものを想定し、舞台上だけのアーカイヴのためのアーカイヴを作るべきなのか。
また、永久に再現可能であるか、という問題においては、コンピュータ技術などを用いたメディアアートで言えば、当時のコンピュータ技術に立脚された作品
が、現代の新しいOS上では機能しないなどの問題も発生している。この問題は絵画作品が経年変化でくすんでいく、と言った問題や、彫刻作品、より古い時代
で言えばスフィンクスの雨による浸食、風化などに見られるように、古来から作品を保存することの問題として現在でも目に見える形で存在している。
絵画であれば絵画修復は専門の職業として確立されているし、一部の芸術大学ではそれを専門とした学部も存在する。
より難しいのは、記憶媒体の出現する前の音楽である、なぜならばその時代の音楽は、指示書として存在する譜面のみが現在に残っており、音としての当時の記
録が存在しないからである。指示書の指示に、例えば時代的な共通認識として欠落している部分があったとしたら、それは後年、本来の形とは異なる形で再生さ
れることとなる。
例えばローレンスピッケンという音楽学者の研究では、日本の雅楽は従来、もっとテンポの速いものだった、という分析を行っている。1000年以上の間伝承されていくうちに徐々に異なるものとなっていった可能性を示唆しているのである。
現在では、映像記録、録音などの様々な記録手法が発達してきた結果、限りなくその時代のリアリティを切り取ったアーカイヴが可能になっているとも言えるが、音楽家の三輪眞弘の主張する“録楽”という考え方に基づけば、“人間によって演奏され、その場で聴かれる音楽”と“人間の手を介さず、複製技術によって聴かれる音楽”は別物であり、記憶媒体はその音楽のアーカイヴではあれど、音楽作品そのものではあり得ない、ということとなる。では、録楽は音楽の完全なアーカイヴと言えるだろうか?
(参考:http://tower.jp/article/series/2011/10/13/Masahiro_Miwa)
作品を連綿と続く人間の文化の通時性のベクトルの上に横たわる共時性の産物として、その作品を鑑賞した時代の人々の感覚や、当時の社会的雰囲気までを作品
として捉えようとした場合、そのアーカイヴは非常に膨大な情報となるだろう。あるいは、そのようなアーカイヴなど不可能であるのかもしれない。
先日Twitterでリツイートされてきたツイートにこのようなものがあった。
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まったく同じ文脈で先日、大学生の漫画好き男子に「大友克洋の何が凄いのか全然わからない、『AKIRA』も『童夢』も他の漫画によくあるシーンばかり
じゃないですか」と言われて立ちくらみがした。本当に世界を変えてしまった才能は、その後の世代からは空気のように透明な存在になってしまうのだ。
https://twitter.com/C4Dbeginner/status/595949410590261250
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「AKIRA」「童夢」はある意味でそのジャンルの開拓者であったからこそ価値が担保されている部分が在る。新規性の評価はその時代が過ぎてしまえば理解されないものとなるし、当時感じることの出来た感動は時代が変わってしまえば理解できないものとなる。
たとえばアンディウォーホルの実験的な映像作品群は現在ではAfter Effectsの効果を使えば再現可能であるものが幾つか在るが、それが容易に再現可能であるからと言って、その作品に置ける新規性が損なわれるわけではない。
SF作家、テッド・チャンの短編集「あなたの人生の物語」の中に「顔の美醜について」という一遍がある。この物語では、脳科学の発展の末、意図的に脳に機能障害を起こさせる“美醜失認処置(カリーアグノシア)”という処置が安全に行えるようになっている。様々な人々が、人間の従来的な評価基準は、外見でなく内面であるべきである、という信仰の元、外見による評価基準を意図的に欠落させる、という未来の社会を描いた作品である。
本作品の中では、過剰に発展した脳科学が、人間の認識操作することと、過剰に発展した広告手法によって、脳科学によって操作されていない人々が煽動されてしまう、という二重構造を一種皮肉を交えて描いている。
(参考:あなたの
人生の物語 (ハヤカワ文庫SF))
また映画マトリックスではデータとしてアーカイヴされた格闘技の情報を、脊髄に接続された端子から書き込むことで、経験すること無く習得する、と言った場面が描かれているし、攻殻機動隊では電脳に直接銃の制御ソフトを書き込んで銃を使用すると言ったシーンも存在する。
(マトリッ
クス スペシャル・バリューパック (3枚組)(初回限定生産) [Blu-ray]
)
(攻殻機動
隊 (2) KCデラックス)
この、安全なブレインストーミングが可能となった
時、鑑賞者は作品を鑑賞する前にブレインストーミングを受け、作品発表当時の時代の記憶を埋め込まれた上で作品を鑑賞する、といったことが可能となり、
我々はフレッシュなナムジュンパイクを体験することが出来るようになるだろうか?
2015年5月28日木曜日
2015年5月9日土曜日
メトロポリス考
「ケンイチ…私は誰?」
もはや涙枯れ果て涙線からはここ数年涙などというものは顔を出さぬ私であるが、アニメ、メトロポリスのラストシーンのこの台詞を聞くと少し目が潤む。
メトロポリスという作品は手塚治虫の原作だけでなく黒田硫黄が漫画化してたりとなにかと原作者以外の他者の視点の介入のある作品である。
原作にミッキーマウスが出てくることは余録であるが、昔先輩が、改めて原作を読み直すと、ケンイチくんがなんだかんだでひどい奴という話をしていたことを思い出す。同じような指摘を黒田硫黄も行っているが、ケンイチくんは言うまでもなく結構俗物的で、機械故の純真さをもつミッチイなどと並べると結構ひどい奴なのである。まあそれでも、あくまでどこにでもいる普通の人、というレベルでひどい奴、というくらいであるが。
同じ漫画という土俵で制作された黒田硫黄のメトロポリスは私の好きな漫画の一つである。原作でのミッチイは神聖な両性具有、或は純真で高潔な少年性のようなものを前面に押し出されたデザイン、つまりアトム型の少年ロボットなのであるが、黒田硫黄の描くミッチイはスれた青年、つまり男としての側面を強くデザインされている。ミッチイのことを忘れているケンイチくん、原付で事故るわさっき出会った男と寝るわとせわしない女、主体性のないレッド公、と基本的にキャラクター達は場面場面をしっちゃかめっちゃかにかき回す。割とまじめに配役に殉じているランプやハムエッグがかわいそうなくらいである。取り繕ったように人口密度増加、ビルの乱立、野球は観戦するものであってするものではないといった価値観が当たり前となっているほどに遊び場のない町といった社会批判のようなものも垣間見えるが、それぞれのメッセージ性がごった煮になっていて、もはや何が言いたかったのかよくわからない。人間達よりもロボットであるミッチイの方が古典的な人間らしい生活に理解を示すなど、汚れた人と純真な機械というアトムに近い構造で語られるものの、目的を達成したミッチイが野球をやってる最中にケンイチくんがバットで打ったボールに直撃して死んだり、改めて考えてみると、本当に、一本筋が通って話が終わる、ということはない、オモテニウムの影響で太陽の黒点増え続けるし、万年浪人生のケンイチくんの自己の葛藤が解決される訳でもない。しかしこの漫画では、まごうこと無く、自分という生き物をまっとうしているキャラクター達が好き勝手に動き回る。それで綺麗に大団円にまとまる訳もないし、当たり前に当たり前な話である。ケンイチくんは自分自身が何であるのか、という答えを、結局女で満たそうとするし、問いを超越していたミッチイに対して強いコンプレックスを抱き続けていた。レッド公も全ての指示を超人であるミッチィにゆだねようとしていたが、この辺りは原作のミッチィの純潔な高貴さに惹かれた人々という構図と、目的のためなら手段を選ばないというある種純粋で超越的なミッチイに惹かれた人々、という形で非常に似ている。
合目的的であるために、ミッチイはどちらの作品でも最終的に「私は誰?」という問いをもたない。いや、表面的にはもたないかのように見えるのである。原作のミッチイは特に「私は誰?」と言う問いを自身のアイデンティティとしての内面の問題ではなく、人間であるのか、ロボットであるのか、という単純な帰属の問題として捉えているように思う。
映画メトロポリスの方に話を戻そう。
ミッチイに当たるキャラクターは少女型ロボットのティマであるが前述の通りこの作品ではミッチイは少女なのである。アバターが明確に少女になった、ということで映画メトロポリスは非常にBoy meet Girl色が強くなっている。黒田硫黄はメトロポリスの帰着点を野球と女に集約させたが、この映画では、男と女、人間とロボットという構図がかなり強く現れている。男と女というものがわかりあうことが出来るのか、ティマは自分が、そしてケンイチはティマが誰であるのかと言う問いに如何に答えるか。という構造となっている。自らを襲ったティマを救おうとしたケンイチは独りよがりで惰性的ながらも回答を示したと言えるが、その回答は果たしてティマにとっての正解であったのか、最後に「私」を確立させた「ケンイチ」の名を呼んで、「私は誰?」の言葉とともにケンイチの手を握り返さずにティマは落ちてゆく。
「僕はケンイチ、君は一体誰なんだ?」
「キミハイッタイダレナンダ? 」
「ちがうよ、いいかい、君は自分のことは私、って言うんだよ」
「ケンイチ」
もはや涙枯れ果て涙線からはここ数年涙などというものは顔を出さぬ私であるが、アニメ、メトロポリスのラストシーンのこの台詞を聞くと少し目が潤む。
メトロポリスという作品は手塚治虫の原作だけでなく黒田硫黄が漫画化してたりとなにかと原作者以外の他者の視点の介入のある作品である。
原作にミッキーマウスが出てくることは余録であるが、昔先輩が、改めて原作を読み直すと、ケンイチくんがなんだかんだでひどい奴という話をしていたことを思い出す。同じような指摘を黒田硫黄も行っているが、ケンイチくんは言うまでもなく結構俗物的で、機械故の純真さをもつミッチイなどと並べると結構ひどい奴なのである。まあそれでも、あくまでどこにでもいる普通の人、というレベルでひどい奴、というくらいであるが。
同じ漫画という土俵で制作された黒田硫黄のメトロポリスは私の好きな漫画の一つである。原作でのミッチイは神聖な両性具有、或は純真で高潔な少年性のようなものを前面に押し出されたデザイン、つまりアトム型の少年ロボットなのであるが、黒田硫黄の描くミッチイはスれた青年、つまり男としての側面を強くデザインされている。ミッチイのことを忘れているケンイチくん、原付で事故るわさっき出会った男と寝るわとせわしない女、主体性のないレッド公、と基本的にキャラクター達は場面場面をしっちゃかめっちゃかにかき回す。割とまじめに配役に殉じているランプやハムエッグがかわいそうなくらいである。取り繕ったように人口密度増加、ビルの乱立、野球は観戦するものであってするものではないといった価値観が当たり前となっているほどに遊び場のない町といった社会批判のようなものも垣間見えるが、それぞれのメッセージ性がごった煮になっていて、もはや何が言いたかったのかよくわからない。人間達よりもロボットであるミッチイの方が古典的な人間らしい生活に理解を示すなど、汚れた人と純真な機械というアトムに近い構造で語られるものの、目的を達成したミッチイが野球をやってる最中にケンイチくんがバットで打ったボールに直撃して死んだり、改めて考えてみると、本当に、一本筋が通って話が終わる、ということはない、オモテニウムの影響で太陽の黒点増え続けるし、万年浪人生のケンイチくんの自己の葛藤が解決される訳でもない。しかしこの漫画では、まごうこと無く、自分という生き物をまっとうしているキャラクター達が好き勝手に動き回る。それで綺麗に大団円にまとまる訳もないし、当たり前に当たり前な話である。ケンイチくんは自分自身が何であるのか、という答えを、結局女で満たそうとするし、問いを超越していたミッチイに対して強いコンプレックスを抱き続けていた。レッド公も全ての指示を超人であるミッチィにゆだねようとしていたが、この辺りは原作のミッチィの純潔な高貴さに惹かれた人々という構図と、目的のためなら手段を選ばないというある種純粋で超越的なミッチイに惹かれた人々、という形で非常に似ている。
合目的的であるために、ミッチイはどちらの作品でも最終的に「私は誰?」という問いをもたない。いや、表面的にはもたないかのように見えるのである。原作のミッチイは特に「私は誰?」と言う問いを自身のアイデンティティとしての内面の問題ではなく、人間であるのか、ロボットであるのか、という単純な帰属の問題として捉えているように思う。
映画メトロポリスの方に話を戻そう。
ミッチイに当たるキャラクターは少女型ロボットのティマであるが前述の通りこの作品ではミッチイは少女なのである。アバターが明確に少女になった、ということで映画メトロポリスは非常にBoy meet Girl色が強くなっている。黒田硫黄はメトロポリスの帰着点を野球と女に集約させたが、この映画では、男と女、人間とロボットという構図がかなり強く現れている。男と女というものがわかりあうことが出来るのか、ティマは自分が、そしてケンイチはティマが誰であるのかと言う問いに如何に答えるか。という構造となっている。自らを襲ったティマを救おうとしたケンイチは独りよがりで惰性的ながらも回答を示したと言えるが、その回答は果たしてティマにとっての正解であったのか、最後に「私」を確立させた「ケンイチ」の名を呼んで、「私は誰?」の言葉とともにケンイチの手を握り返さずにティマは落ちてゆく。
「僕はケンイチ、君は一体誰なんだ?」
「キミハイッタイダレナンダ? 」
「ちがうよ、いいかい、君は自分のことは私、って言うんだよ」
「ケンイチ」
「私は誰?」
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