伺かと言うものがある。
あった、その頃はwindows meを使っていて、jpegを表示するにも数分待っていたような時代だったように思う、記憶違いで、もう家にもADSLが来ていたかもしれない。
mixiはまだなくて、当たり前だけどTwitterなんかもなかった、掲示板カルチャーや、CGIで自分のプロバイダのサーバーにチャットを置く、みたいな時代だったような気がする。
いろんな意味で、インターネットはまだあまりインターではなくて、やたら低い解像度の、今のgifアニメよりも画質の悪いような動画を見たり、人の立ち上げたサイトを眺めたり、ページを開いては読み込みに時間がかかるので、本を読みながらとか、何か別のことをしながらインターネットをしていたような気がする。
掲示板をF5で更新して、誰かからのレスポンスがついてないかを気にする。
少なくとも、Lineみたいなスピード感のやりとりじゃなくて、それはチャットが一般に普及するまでずいぶん待つ必要があった。当時自分は幼かったので、同年代ではない人の言葉を見ることがずいぶん新鮮だったかのように思う。
インターネットは、デュシャンが絵画について、または作品について言及したような「何か別のものへの窓」[デュシャン,1999]ではあったが、その大きさはとても小さくて、少なくとも、人間一人が、鏡の中に入っていった(Through the Looking-Glass)アリスのように窓の向こう側に行くことは不可能だった。
そんな中で、その空き時間を埋めるために「伺か」とか、比較的軽量で、ローカルで楽しめるフリーゲームカルチャーみたいなものが流行っていたんではないか、と思う。
僕は今だにその頃に出会ったフリーゲームの「くもりクエスト」が大好きだが、構造的にこのゲームは「伺か」と似ている。
彼女らはなんら生きていない、ただ選択のパターンであるとか、内部に持っている情報を、ディスプレイの前にいる人間の操作如何で、順次開示していくだけだ。
そこにストーリーテリングがあり、ストーリーテリングがある以上、人間は感情を動かされる。
全てが書かれた分岐式のロードマップとやりとりしている。つまり、パンチカードを機械に差し入れて、計算結果が返ってきた時代のコンピュータ、ないし、計算機と相対しているのと、なんら変わらない。でも、そこには、少なくとも、人間が孤独を埋めるための何かがあった。孤独でない、ということは、一人でない、ということだ。でも、少なくともここには誰もいない。
ノベルゲームもこの構造に似ている。情報が順次開示される、という方法は、少なくとも本を読むという行為よりはインタラクティブだったのかもしれない、本だって、ページをめくる、という行為によって情報が開示される、なんら変わりない構造であるというのに。
少なくとも、生命ではない、それは(もちろん知的でもない)、じゃあなんなのか、ということを考えてみると、なるほど、自分の中に生まれた虚像なのだと気づく、本質的に我々がストーリーテリングを、少なくとも、自分の心の中で受け止めようとするとき、そこにあるのは虚像だ。その像は、少なくとも、その作品の作者につながっている。
意図と構造は不可分なので、物語は必然的に、書いた人を投影することになる。しない、という立場の人もいるだろうが、それはまあ今は置いておく。(そして拾い上げることはしない)
気になるのは、これらのキャラクターが、少なくとも、この時代にインターネットの遅さという絶望的な環境に常に置かれていた我々の、孤独を埋めるために存在したのではないか。ということだ。
代理の人間だったのではないか、ということだ。
そしたらこれは正しく人口の生命を志したものだったんじゃないだろうか。
だったんじゃないだろうか。