知覚のあわい —知ることと感じること
「私たちは動くために知覚しなければならないが、知覚するためには動かなければならない」
—ジェームズギブソン
0.はじめに
知ることと感じることの関係性について
さわりに、渡邊恵太の「カーソルによる手触り感提示システム」[渡邊 2003]に触れる。
VisualHaptics: カーソルによる手触り感提示システム
http://www.persistent.org/visualhaptics.html
今回のゼミでは芸術作品における知覚と感覚について考えてみようと思う。古典から近年の若手作家までの作品の紹介とともに、今回はテーマを視覚に絞り、それらについて論じる。
1.感じること
身体感覚を用いた作品群
「Open Field」-「バーチャルボーイ」-「見ることは信じること」
影の存在しない空間で無限遠を体感させるジェームズタレルの「Open Field」 [2000]、Ledとミラーによる構造で人間の視覚に立体感を与える任天堂の3Dゲーム機「バーチャルボーイ」[1995]、そして 裸眼では認識できない赤外線LEDを赤外線スコープで覗いたときに、文章として他人の生活を覗き見ることが出来る“見えないモノの存在を視る装置”、八谷和彦の「視ることは信じること」[1996]の3作品をもとに、感じることについて話す。
2.知ること
計測することを用いた作品群
「雲を測る男」-「視点ユニット」-「物的証拠」
金沢21世紀美術館の屋上で椅子の上に立ち雲を物差しで測る男の銅像、ヤン・ファーブル「雲を測る男」[1999]、ホワイトキューブ(白い箱)2閉じ込められたカメラが各種の計測機器を撮影し続けることにより撮影されていない範囲までに映像の可能性を提示する、時里充の「視点ユニット」[2014]、そして、出来事と、その出来事が現象として引き起こす痕跡/証拠を題材としたOAMAS谷口暁彦研究室の「物的証拠」[2014]の3作品を元に、知るということについて話す。
3.いつもどこかで視られている
無自覚な知覚、無意識の感覚について
「アイ・オー —ある作曲家の部屋」-「歩行者用通路の錯視シート」-「Painstation」
毛利悠子の「アイ・オー —ある作曲家の部屋」[2014]は、一種のインタラクティブ性をもった作品である。そこにある楽器やブラインドなどの日常から持ち出したような品々は、そこにやってきた鑑賞者の持ち込んだホコリによって描かれた楽譜を元に、自動で演奏されていく。鑑賞者はそうと知らされるのでなければおそらくその意図を永久に汲み取れないであろう。そのいずれか、が知覚されるということ。
村上郁也の特許である「歩行者用通路の錯視シート」[2008]は、目の錯覚を利用したよ後者の誘導手段である。この錯覚による意図せぬ人体の制御は人間の感覚と知覚の関係性を揺るがすものとなるだろう。
http://astamuse.com/ja/published/JP/No/2006002431
/////////fur//// art entertainment interfaceの「Painstation」[2001]は対戦型ゲーム筐体の形式をとるテレビテニスゲームである。しかしこのゲームは、テレビテニスの失点ごとに
プレイに使わないほうの手を鞭のようなデバイスで殴打する。ゲームという勝敗と優劣、競争の遊びにおける人間の機微を、否が応でも認識せざるを得ない構造となっている。
この作品をプレイすることによって、痛覚という逃れ得ぬ感覚から自分自身の内面を知ることとなるのだ。
4.拒否、そして知覚不可能であること。
「無題」-「黒の正方形」-「L'Origine du monde」
白のみのテクスチャーでカンバスに描かれたジョシュ・スミスの「無題」[2014]、白地に黒い正方形の描かれた、ただそれだけの絵、カジミール・マレーヴィチの「黒の正方形」[1915] そして光を吸収する顔料を用いて描かれた無限に深い穴、アニシュ・カプーアの「L'Origine du monde」[2004]これらの作品について
以下に引用した作品について、適当なリンクを羅列する。
ジェームズタレル,「Open Field」,2000.
http://jamesturrell.com/artwork/open-field/
hamatsu,任天堂失敗列伝~第三回~「バーチャルボーイの巻」,2015/2/2チェック.
http://d.hatena.ne.jp/hamatsu/20090510/1241950896
八谷和彦,「見ることは信じること」,1996.
http://www.petworks.co.jp/~hachiya/works/jianrukotoha_xinjirukoto.html
ヤン・ファーブル「雲を測る男」,1999.
https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=30&d=3
時里充「視点ユニット」,2014.
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2014/Openspace2014/Works/Viewpoint_Unit_j.html
思い出横丁情報科学芸術アカデミー 谷口暁彦研究室 「物的証拠」,2014.
http://materializing.org/14_oamas/
毛利悠子「アイ・オー —ある作曲家の部屋」 ,2014.
http://yokotori-art.tumblr.com/post/100816852651/4
ジョシュ・スミス「無題」2014.
カジミール・マレーヴィチ「黒の正方形」,1915.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E3%81%AE%E6%AD%A3%E6%96%B9%E5%BD%A2
アニシュ・カプーア「L'Oringine du monde」,2004.
http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?d=5&g=30
2015年2月2日月曜日
2015年1月28日水曜日
芸術に関する覚え書き。
芸術に関する覚え書き。
・芸術は可能か?
芸術作品というものは古くから創作され、また文化的、教養的価値を示す明確なものとして、社会的に保護され、また教養として伝えるために様々な国が美術館や博物館という形式で収蔵、保存、展示を行っている。
しかしこの芸術というものがどういうものであるか、また、どういうものでないか、という部分に関しては、様々な評論家や芸術家自身によって明瞭確乎とした定義を求めようという試みはあったものの、明確な芸術を芸術足らしめる要素というものは、言語化し切れていない部分がある。
特に古典以降、より自由なものとして発展してきた芸術は、絵画におけるキャンバスと油絵の具、彫刻における大理石や木、身体表現における場にいたるまで、従来のメディウム(媒体)にとらわれない表現手法を確立していった。ミニマリズムがポストミニマリズムに、ポストミニマリズムがインスタレーションアートに、と文脈を踏襲してつながっているように、それらの作品群は、それまでの作品のアンチテーゼであったり、その時代時代に対する表現手法として、様々な形を取ってきた。ここに至って、芸術というものはどのようなものであるか、という定義が、明瞭確乎としたものである、ということはどのような論法をもって言うべきであろうか。岡本太郎は「芸術は爆発だ」と言ったが、このようなセンセーショナルで強い言質は、あくまでもその個人の想いによるところが強いように思われる。
その中でもメディアアートというジャンルにおいて馬定延が著書「日本メディアアート史」において行った「国内外を問わず、言葉の射程が定まっていないなか、本書では「メディアアート」を作家と作品と観客を取り囲む環境としてのテクノロジーの発達に伴う社会現象として、またそれに対するアーティストの取り組み方の問題として定義してみたい」 という定義は、既存の芸術史における芸術の独自性、という観点をあえて排し、社会との関係性という点にクローズして語るという具体性において、従来の芸術の定義と違い、非常に柔軟性のある定義であるように思う。それはボイスの提言した社会彫刻という概念に連なる発想であるとも考えることが出来るだろう。芸術作品はその芸術作品が独自に芸術性を担保する訳ではなく、その場と環境との関係において芸術性を担保するのである。
・サイトスペシフィックな芸術
サイトスペシフィックというのは芸術と場所、つまり作品とそれがおかれる空間というものは不可分である、という考え方である。この考え方は、美術館のように展示ごとにその配置が変わる、また、作品の設置に作家の完璧な意図の介入を許さない制度に対する反発でもあり、ホワイトキューブのような白い隔離された展示空間や美術館という既存の場所性への批判でもある。
キャロル・ダンカンは芸術を美術館の機能と共に記述している、「美術館というリミナルな空間では,あらゆるもの—ときにはどんなものでも—がアートになりうる」と。現実という空間から隔離され、一種のメタ的な視点でもって様々な事象を問い直す、その芸術の性質はこの美術館のもつ、再考する場という機能によって担保されてきた部分が少なからずある筈である。これは古くはデュシャンの泉のような、美術館という機能と権威に裏打ちされた作品の存在からも窺い知ることが出来る。
参考文献
馬定延、「日本メディアアート史」、アルテスパブリッシング、2014
キャロル・ダンカン、「美術館という幻想 儀礼と権力」、水声社、2011
・芸術は可能か?
芸術作品というものは古くから創作され、また文化的、教養的価値を示す明確なものとして、社会的に保護され、また教養として伝えるために様々な国が美術館や博物館という形式で収蔵、保存、展示を行っている。
しかしこの芸術というものがどういうものであるか、また、どういうものでないか、という部分に関しては、様々な評論家や芸術家自身によって明瞭確乎とした定義を求めようという試みはあったものの、明確な芸術を芸術足らしめる要素というものは、言語化し切れていない部分がある。
特に古典以降、より自由なものとして発展してきた芸術は、絵画におけるキャンバスと油絵の具、彫刻における大理石や木、身体表現における場にいたるまで、従来のメディウム(媒体)にとらわれない表現手法を確立していった。ミニマリズムがポストミニマリズムに、ポストミニマリズムがインスタレーションアートに、と文脈を踏襲してつながっているように、それらの作品群は、それまでの作品のアンチテーゼであったり、その時代時代に対する表現手法として、様々な形を取ってきた。ここに至って、芸術というものはどのようなものであるか、という定義が、明瞭確乎としたものである、ということはどのような論法をもって言うべきであろうか。岡本太郎は「芸術は爆発だ」と言ったが、このようなセンセーショナルで強い言質は、あくまでもその個人の想いによるところが強いように思われる。
その中でもメディアアートというジャンルにおいて馬定延が著書「日本メディアアート史」において行った「国内外を問わず、言葉の射程が定まっていないなか、本書では「メディアアート」を作家と作品と観客を取り囲む環境としてのテクノロジーの発達に伴う社会現象として、またそれに対するアーティストの取り組み方の問題として定義してみたい」 という定義は、既存の芸術史における芸術の独自性、という観点をあえて排し、社会との関係性という点にクローズして語るという具体性において、従来の芸術の定義と違い、非常に柔軟性のある定義であるように思う。それはボイスの提言した社会彫刻という概念に連なる発想であるとも考えることが出来るだろう。芸術作品はその芸術作品が独自に芸術性を担保する訳ではなく、その場と環境との関係において芸術性を担保するのである。
・サイトスペシフィックな芸術
サイトスペシフィックというのは芸術と場所、つまり作品とそれがおかれる空間というものは不可分である、という考え方である。この考え方は、美術館のように展示ごとにその配置が変わる、また、作品の設置に作家の完璧な意図の介入を許さない制度に対する反発でもあり、ホワイトキューブのような白い隔離された展示空間や美術館という既存の場所性への批判でもある。
キャロル・ダンカンは芸術を美術館の機能と共に記述している、「美術館というリミナルな空間では,あらゆるもの—ときにはどんなものでも—がアートになりうる」と。現実という空間から隔離され、一種のメタ的な視点でもって様々な事象を問い直す、その芸術の性質はこの美術館のもつ、再考する場という機能によって担保されてきた部分が少なからずある筈である。これは古くはデュシャンの泉のような、美術館という機能と権威に裏打ちされた作品の存在からも窺い知ることが出来る。
参考文献
馬定延、「日本メディアアート史」、アルテスパブリッシング、2014
キャロル・ダンカン、「美術館という幻想 儀礼と権力」、水声社、2011
2014年11月27日木曜日
Nabi Hackathon : PAN Innovation for Good
Nabi Hackathon : PAN Innovation for Goodへの参加の記録
日がな一日研究に明け暮れている私は常々、どうにかして数日でもよいから研究室から抜け出し、青々とした空のもと青春を謳歌することはできまいか。あわよくば南の島などで過ぎ去った青春の甘い汁をちうちうと吸うことなど叶うまいか、などと不真面目なことを考えていた。そんな折に、私は先生からこの話をいただいた。11月後半のこの期間、制作に余裕があるなら韓国に行ってくれないか、というお話に、私は後先顧みず飛びついた訳である。
今回のハッカソンの会場は韓国のチェジュ島にあるICC Jeju、日本の初台にあるICC(InterCommunication Center)と同じ略称であるがInternational Convention Centerの略称であるとのことである。
相変わらず金のない私は2万円を16万ウォンばかりに両替し、鞄にたくさんの電子部品をぎゅうぎゅうに詰め込んで日本を発った、さようなら日本の人々、あわよくば今の二倍も三倍も大きな人間になって、私はこの地を再び踏むだろう、大体四日後くらいに。
事前に同じ研究室の韓国人の友人に聞いていたのであるが、チェジュ島と言う島は日本で言う所の沖縄のような島であるようでみかんのうっそうと茂る南のパラダイスであると言う。
かくして留学などでふらふらとヨーロッパやアメリカには行ったことはあるものの実は日本以外のアジアの国には行ったことのない私は大きな期待とともに韓国を訪問したのである。
韓国と言うのは日本にとても似ているが似ているようで様々な違いのある面白い国である、というのは私の先生の言であるが、韓国の空港に降り立ってはじめに感じたのは、日本と似ている情景、しかし異なる文字、異なる言語、という、不思議な空間であった。
ICC Jejuではまず初日にスーツケースエキシビジョン、ということで、現在の作品や研究を持ち込んで展示した、現在大学で修士作品として研究している「"Toru"モスキート音によって年の功を逆転するゲーム」 という、こどもが大人に勝つためのゲームを展示させていただいた。(作品紹介http://johnsmithworksforgakuseicg.tumblr.com/ 論文のリンクhttp://dl.acm.org/citation.cfm?id=2662973)
初日の夜はホテルの1階で今回のイベントのリーダーであるArt Center NabiのSi Woo Kimという方がアーティスト同士のフレンドリーな雰囲気を作ることに尽力してくださり、大変素晴らしいスタートとなった。我々はビールと、とても辛い韓国のお菓子やカップ麺に舌鼓を打った。このパーティーで我々は大変打ち解け、大いに語り、半数近くが飲み過ぎで翌日遅刻したのは余談である。写真は韓国のあずきバー。
二日目からはハッカソンの本番である。
韓国と言う異国の地でどんな寂しい思いをするだろうかと、出国前はびくびくしていたが、いざ行ってみたらなんとに日本からの参加者は私が学部時代に在籍していた多摩美術大学のセンパイ方や関わりのある早稲田大学の生命美学研究の知人など、顔見知りが多く、何より私の大学から後輩がふたり来ており、これで異国の地で生まれたての子鹿のようにプルプル震えなくてもよいと大変安心した。
初日はまずアーティスト同士の作品を見ながらの自己紹介である。
プロジェクションマッピングと物理ギアの連携やアイトラッカー(目線を検出する装置)実験的な映像作品やテクノ手芸など様々なジャンルで活動する人たちの自己紹介を聞きながら、私は自分の発表を今か今か緊張して待った。私は目立ちたがりだがシャイな性分であるので、人前に立つのは好きだが苦手という非常に面倒な人間である。なんだかんだと英語では数回目のプレゼンであることと、イベント全体のフレンドリーな雰囲気のおかげで何事もなくプレゼンを終えることができた。
ハッカソンではグループワークと言うことで、日本人の広告ディレクターの古屋遙さんと、韓国のアーティストユニットであり前回のアルスエレクトロニカにも出展していたJunbong Song、Jaehyuck Bea、そして私というメンバーでのグループディスカッションからの制作と言うことになった。
まずはみんながどのような技術やアイディアを持っているか、という話から始まりディスカッションを進めた。
Song、Beaのコンビはアーティスト兼エンジニアと言う様なタイプで、手持ちのものはLedビーコンとセンシング用のカメラ、アイトラッキング用の機材、3Dデータ制作フィジカルコンピューティングなど様々な技術と手持ちの機材の話、この機材でできるアイディアなどを話してくれ、私は興味津々でその話を聞いた。
遙さんは映像系の広告ディレクターで、フィジカルコンピューティングや様々な技術を使った斬新な広告宣伝、店舗でのイベントの企画などをやっており、本人も映像作品を作っているという方であった。ちょうど話題に上がった仕事に自分の先生も関わっており、また、興味があるジャンルであったこともあって大変楽しく話を聞くことができた。
私はというと、手持ちの技術としては前出の研究であるモスキート音関係ものと、学部の頃やっていたデバイスパフォーマンスのときに培った電子工作技術、Max/MSP、そして修士前半に行っていたスピーカー構造を解体したコイルと磁気、音響と振動に関する研究の一部である。
メンバーは特にこの音響関係の技術に大きな興味を持ってくれて、大まかには私のアイディアを採用することになった。
その日は焼き肉を食べた。
三日目は朝から本格的に制作である。
私の英語はそのほとんどをアメリカのホームコメディーやモンティパイソン、シンプソンズなどによって学んだものであるので、往々にして難しい話がうまくできず、要所要所つたわりずらいところは図を使いながら話すなど試行錯誤しながらコミュニケーションを取る、この過程が大変面白かった。
全員で話し合いながらどのような作品が作れるか、というディスカッションを重ね、最終的にスピーカーの構造を応用し、音楽の電気信号を磁気に変え、磁石の指輪で音楽を音ではなく指で感じる。と言うものになった。
これが決まってからは非常に早かった。ディスカッション自体もディレクターとして活動している遙さんの立ち回りによりスムーズに進行したこともあるが、BeaとSongのコンビの仕事はまさに鬼神のごとき速度であった。こういう構造のものがほしい、という話になったら、私が少しぼんやりしている間に、もう3Dデータでデザインのアイディアが形になっており、私は大変驚いた。うかうかしてはいられない。プログラミングはBeaと私で分担し、SongとHarukaさんがプロダクトのデザインと3Dモデリングさらに遙さんはプレゼントと全体のディレクションを担当した。
ハッカソンというイベントの特徴でもあるが、私たちは休むことなく(間に主催側の用意してくれた優雅な昼食を挟んだものの)制作に明け暮れ、何とも形容しがたい味で有名な韓国の炭酸飲料メッコールを飲みながらコイルを巻き、プログラムを書いた。
Beaの書いたprosessingのプログラムと私の書いた音響部分のプログラムをどのように連携するか、など話し合いながら作業し、このような形で他の人とものを作って行くと言うプロセスは今までの人生の中であまり経験したことがなく、学ぶ所が多かった。
前項で書き忘れたが今回のフライトでは、エコノミークラスが満席とのことで、エコノミーの料金でビジネスクラスに乗ることができたのであるが、私はとにかく気を使われたり、あまり関係のない人に何かしてもらうと言うことが非常に苦手である(これは先生とかセンパイのようなケースは除く)。もう気を使われることに気を使いすぎて、生きた心地がしなかった。人間には分と言うものがあり、ビジネスクラスは私にとって分を過ぎたものであると言ってよいであろう。しかし例えば大きな仕事をするとき、大きな作品を作るとき、必ず人の手を借りなければ行けないであろうことは目に見えており、こんなままではいかん、と考える訳である。今回はグループワークという、分担とそして信頼して任せると言う作業が必然となる形態の中でそのようなことを考えながら制作を進めることができた、それぞれの得意分野が合わさった結果様々な相乗効果が見られ、また、根っこの技術的アイディアが僕のものであっても、どのようにみんなが考え、どのようなものが良いものかというおのおのの哲学がぶつかり合う環境の中でできたものは、絶対に私だけでは想像できなかったものとなった。
これが完成した「Silent Speaker」である。
これは磁石のついた指輪を穴の部分に入れることで音楽の振動を耳でなく指で感じ取ることができる作品である。
見せ方やタイトルなどは遙さんが主導して進めてくれた。
発表は大変好評であり、我々は大いに喜んだ、喜びすぎてその喜びの声は日中韓三国に響き渡り、北京の蝶が驚いて羽ばたき、ニューヨークで嵐が起きたと言う。
我々の他にも海水を吹きかけたリンゴとミネラルウォーターを吹きかけたリンゴ、二つの変化の過程を展示する装置など、リサーチ色の強いものもあればアプリ開発など、様々な形での発表があり、大変刺激的であった。
晩ご飯はなんか豪華な、海鮮鍋のようなものであった。余談であるが韓国の料理が辛すぎて私はこの三日間ずっとおなかが痛かった。辛いけどおいしいので、つい食べ過ぎ、しかも辛いので胃にくるのである。次の機会があれば辛さ控えめのものにトライして行きたい。
チームメイトと、作品に触発されて様々なアイディアを提案してくれた参加者、多くの刺激を与えてくれたアーティスト、そして参加者を幅広くサポートしていただいたSi Woo Kimさん、渡航などのサポートをしてくれたSoeun Kimさん、Art Center Nabiの方々、このハッカソンを紹介していただいた先生方にここで感謝の言葉を述べたい。もはや足を向けて寝ることができないので私は今後地面に足をつけて眠らなければなるまい。
私は三国一の果報者である。
そして何よりの収穫は、このイベントの中で多くのアーティスト達と国を超えて友人となることができたことだろう。
最後に韓国で見つけたガリガリ君っぽいアイスの写真でこの記録を締めようと思う。
帰国の便が早朝過ぎてこの後もうひと騒動あるのであるが、 それはもしも話す機会があったらまたの機会に。
匆々頓首
johnsmith
2014年7月23日水曜日
書評、横井軍平ゲーム館
横井軍平ゲーム館 RETURNS ゲームボーイを生んだ発想力
横井軍平は、花札の任天堂をゲームの任天堂へと変えた立役者であり、ゲーム&ウォッチ、ゲームボーイ、ヴァーチャルボーイなど、彼が世に出した商品の名前を聞けばピンと来る人も多い だろう。本書は横井軍平と牧野武文の対談という形で横井軍平の設計思想が語られる。 僕らの世代からすると、なんだゲームボーイを作ったくらいで、そんな大きな顔をされても困る。などと感じる人も居るかもしれないがファミリーコンピュータ以降のカラーのゲームと比べたときに浮かび上がってくるその発想の方向性の違いは目を見張るものがある。
本書の中でも特に目を引くのは、氏が入社後、ゲームハードの開発以前に行っていた、単純な機構を用いたインタラクティブなおもちゃ群である。高性能なマジックハンドや、エレコンガ という電子楽器、左折しかできないが安価なラジコン、それを応用したルンバのような卓上掃除機、太陽電池をセンサーとして用いた光線銃など、氏のアイディアは枚挙に遑がない。
これらの中でも最も私が興味深いと思ったのは、ラブテスターという検流計を用いた二人の愛 情をはかる機械、というふれこみで売られたおもちゃである。これを横井氏は堂々と「公然と女の子の手を握るための道具」と言ってのけている。構造としては検流計によって人間に流れ ている電気を測定し、手を握ったときの接触具合や、緊張感による発汗量の違いで流れる電流 の変化を可視化する、言うなればほぼ嘘発見機と同じ構造のものである。それ自体では何の意 味も持たない検流計を「女の子と手をつなぐ」という環境を演出する道具としてリ・デザインした考え方は、昨今のメディアアートに置ける発想の転換と大変近しいものを感じる。
「ゲームで遊ぶ人はマニュアルなんか読まない」「四万円も五万円もするものが、娯楽品として 売れる訳はない、一万円を切ったら売れるかもしれない」などの受け手の心理への考えや、「人間は色を概念としてみる」「キャラクターはハウツープレイの役割を担っている」と言った認知科学やアフォーダンスへの言及、また、ラジコンは左折さえできればレースはできる、といった発想の転換など、数々の見識とアイディアがひしめいているのが本書である。
「枯れた技術の平行思想」これが横井氏の設計哲学である。 これは枯れた、つまり、使い古されて安くなった技術を、主観的な目線で垂直に見るのでなく、客観的、ある種メタ的な目線で水平に見渡してアイディアを発想する、ということである。 これらの思想に触れることは、もの作り、とくに工業ベースでないメディアアート作品を理解 する上で大いに役に立つと思い、本書をみなさんにおすすめしてこの書評を締めることとする。
横井軍平は、花札の任天堂をゲームの任天堂へと変えた立役者であり、ゲーム&ウォッチ、ゲームボーイ、ヴァーチャルボーイなど、彼が世に出した商品の名前を聞けばピンと来る人も多い だろう。本書は横井軍平と牧野武文の対談という形で横井軍平の設計思想が語られる。 僕らの世代からすると、なんだゲームボーイを作ったくらいで、そんな大きな顔をされても困る。などと感じる人も居るかもしれないがファミリーコンピュータ以降のカラーのゲームと比べたときに浮かび上がってくるその発想の方向性の違いは目を見張るものがある。
本書の中でも特に目を引くのは、氏が入社後、ゲームハードの開発以前に行っていた、単純な機構を用いたインタラクティブなおもちゃ群である。高性能なマジックハンドや、エレコンガ という電子楽器、左折しかできないが安価なラジコン、それを応用したルンバのような卓上掃除機、太陽電池をセンサーとして用いた光線銃など、氏のアイディアは枚挙に遑がない。
これらの中でも最も私が興味深いと思ったのは、ラブテスターという検流計を用いた二人の愛 情をはかる機械、というふれこみで売られたおもちゃである。これを横井氏は堂々と「公然と女の子の手を握るための道具」と言ってのけている。構造としては検流計によって人間に流れ ている電気を測定し、手を握ったときの接触具合や、緊張感による発汗量の違いで流れる電流 の変化を可視化する、言うなればほぼ嘘発見機と同じ構造のものである。それ自体では何の意 味も持たない検流計を「女の子と手をつなぐ」という環境を演出する道具としてリ・デザインした考え方は、昨今のメディアアートに置ける発想の転換と大変近しいものを感じる。
「ゲームで遊ぶ人はマニュアルなんか読まない」「四万円も五万円もするものが、娯楽品として 売れる訳はない、一万円を切ったら売れるかもしれない」などの受け手の心理への考えや、「人間は色を概念としてみる」「キャラクターはハウツープレイの役割を担っている」と言った認知科学やアフォーダンスへの言及、また、ラジコンは左折さえできればレースはできる、といった発想の転換など、数々の見識とアイディアがひしめいているのが本書である。
「枯れた技術の平行思想」これが横井氏の設計哲学である。 これは枯れた、つまり、使い古されて安くなった技術を、主観的な目線で垂直に見るのでなく、客観的、ある種メタ的な目線で水平に見渡してアイディアを発想する、ということである。 これらの思想に触れることは、もの作り、とくに工業ベースでないメディアアート作品を理解 する上で大いに役に立つと思い、本書をみなさんにおすすめしてこの書評を締めることとする。
2014年4月25日金曜日
関係性の可能性。
- possibility of connection -
そこで、どの物体もそれに接触しているものから影響を受け、そのものに起こるすべてのことをなんらかの仕方で感知するばかりでなく、自分に直接接触している物体を介して、この物体に接触している別の物体のことを感じるのである。
ライプニッツ 「モナドロジー」(1714) ライプニッツ著作集[9] 後期哲学 西谷裕作+米山 優+佐々木能章=訳より引用。
心音というパーソナルな情報をデバイスによって外部化する。
身体の接触による他者の認識。
関係性の可能性。- possibility of connection -は
心音という個人的な情報を電気信号として外部化、可視化し、二人の演者の接触非接触の関係によって、人体を用いて電気的コミュニケーションを行い、視覚化できない人と人との関係性を表現する作品である。
わたしのからだにとじこめられた ほんとのわたしは泣いている
寺山修司 「寺山修司少女詩集」(1981)
この言葉の前には「もしも 虫眼鏡の探偵がやってきたら わたしをさがしだしてください」という言葉がある。
つまり、わたしは、泣いているわたしを人に伝える手段を持っていない。
内部の、人間の考えや想いは、言語化、或は何かしらの表現の表出としてでしか、人に伝わらない。
古代中国やギリシャなどでは、かつて心は胸の中、すなわち心臓に宿ると考えられてきた。
心のささやきを心臓の脈動に託し、心音を音と光として外部化することによって、自らの心の揺らめきを可視化、可聴化し、それによって、自らの心、すなわち普段は羞恥やプライドによって覆い隠されている心の動きを外部化することを目的としている。
心音を電気的な信号に変換した後、そのパルス信号を身体に受けることで、
体表に電位をまとい他者と肉体的な接触をすることで視覚的にはただ触れているだけ、と見えるが、体表から流れる電気信号は、接触部分から相手に伝わり、相手の身体に流れる生体電位に干渉し、被接触者の持つ電球の明滅が徐々に接触者の心音のペースと同じ速度へと変化していく。
これらの表出によって、人と人が触れ合うときに感じる接触以上の何か、言語のみでなく、非言語領域で通じ合う定量化しにくい何かを表現とすることが、この作品の目的である。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんないつしょにせはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈のひとつの青い照明です
(ひかりはたもちその電燈は失はれ)
宮澤賢治 「春と修羅」(1924)
- possibility of connection -
そこで、どの物体もそれに接触しているものから影響を受け、そのものに起こるすべてのことをなんらかの仕方で感知するばかりでなく、自分に直接接触している物体を介して、この物体に接触している別の物体のことを感じるのである。
ライプニッツ 「モナドロジー」(1714) ライプニッツ著作集[9] 後期哲学 西谷裕作+米山 優+佐々木能章=訳より引用。
心音というパーソナルな情報をデバイスによって外部化する。
身体の接触による他者の認識。
関係性の可能性。- possibility of connection -は
心音という個人的な情報を電気信号として外部化、可視化し、二人の演者の接触非接触の関係によって、人体を用いて電気的コミュニケーションを行い、視覚化できない人と人との関係性を表現する作品である。
わたしのからだにとじこめられた ほんとのわたしは泣いている
寺山修司 「寺山修司少女詩集」(1981)
この言葉の前には「もしも 虫眼鏡の探偵がやってきたら わたしをさがしだしてください」という言葉がある。
つまり、わたしは、泣いているわたしを人に伝える手段を持っていない。
内部の、人間の考えや想いは、言語化、或は何かしらの表現の表出としてでしか、人に伝わらない。
古代中国やギリシャなどでは、かつて心は胸の中、すなわち心臓に宿ると考えられてきた。
心のささやきを心臓の脈動に託し、心音を音と光として外部化することによって、自らの心の揺らめきを可視化、可聴化し、それによって、自らの心、すなわち普段は羞恥やプライドによって覆い隠されている心の動きを外部化することを目的としている。
心音を電気的な信号に変換した後、そのパルス信号を身体に受けることで、
体表に電位をまとい他者と肉体的な接触をすることで視覚的にはただ触れているだけ、と見えるが、体表から流れる電気信号は、接触部分から相手に伝わり、相手の身体に流れる生体電位に干渉し、被接触者の持つ電球の明滅が徐々に接触者の心音のペースと同じ速度へと変化していく。
これらの表出によって、人と人が触れ合うときに感じる接触以上の何か、言語のみでなく、非言語領域で通じ合う定量化しにくい何かを表現とすることが、この作品の目的である。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんないつしょにせはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈のひとつの青い照明です
(ひかりはたもちその電燈は失はれ)
宮澤賢治 「春と修羅」(1924)
2014年4月22日火曜日
メモ
質問
三輪さん
Q
クワクボ先生の指摘の作品が理解できる、できないということと、高周波が認知できるかできないかということの説明が結びつけて説明されていたが、それは全く別次元の話で論理が破綻している。
A
こ
の部分に関してはそもそもクワクボ先生との面談中に出てきたアイディアでもあり理論の飛躍は存在するものの、クワクボ先生と後ほど話し合った結果、引用部
分に無理があり突拍子のないものになってしまっているが、言わんとすること自体はわかる、という意見をいただき、クワクボ先生とのコンセンサスは取れてい
ます。
むしろ問題点はこの、認識と認知の問題を構造的につなげるという部分の理論的な飛躍の問題をどのように繋げるか、という部分にあると思う、この問題は制作を進める上で重大な問題となるので、これまでの制作との関係性も含め、今後考察を深めて行きたい。
吉田先生
Q
子供が体験できて大人が体験できないということについて、モスキート音以外にそういうものの可能性はどれくらい検討したのか
A
聴
力以外だと動体視力、というものがまずあるだろう、ということで、具体例で言うと、これもまたクワクボ先生の体験からのお話なのですが、蚊を探す、という
ときに、子供は見えるけど大人の動体視力ではもはや飛んでいる蚊を追いかけるということができないので子供に蚊を目で追いかけてもらって、そこにいる、と
教えてもらって大人が叩く、というような連携が起きた、という体験談や、後は注意力、これは聴力、視力にたよらない部分でも、普段大人が気をつけないよう
なことに対しても、子供というのは目新しさを持っている訳で、つまり、あ、これは知ってるな、こういうことだ、と脳が処理してしまう、そういう事例でも、
じっくり見て、理解するという行動が付随する訳で、例えば当たり前だと大人が思っている現象にちょっとしたフェイクを混ぜておく、と、で、そのフェイクに
よる違和感というものをより早く感知するのは子供なのではないか、という考え方ですね、ほかにも床に這いつくばる、とか、汚れることとか、そういうことに
対するイニシアチブって言うのは子供の方が強く持っていると考えられる訳で、例えば120センチの高さの入り口、というようなものを展示会場の入り口に設
置した場合、大人はわざわざかがまないと入れないけど子供はすっと入れる、というような、この辺りは如何に鑑賞という行為を行動にかかるストレスでふるい
分けるか、というような趣向になる訳ですが、このような方向性での大人と子供の分化、ということも可能であろうと考えています。
Q
そ
ういう意味では身体能力や認知力、経験大人は知っているけど子供は知らない、逆に子供は知っているけど大人は知らない、子供の世界にありうるもの、という
ものを使う、それはキャラクターかもしれないしマーキングかもしれない、はやり言葉かもしれない、そういうようなものもあるとは思うのですがその辺りは考
慮はしないのですか?
あ
まり遊具寄り、つまり子供に迎合しすぎる形での作品制作は考えていません、例えばポケモンを使う、というような子供の方が知識的イニシアチブを握っている
ものを用いるというのはかなり具体的な子供を大人を分化できる手法になると思います、しかしこれは流行に乗っかる訳ですから、作品の普遍性、という部分で
はかなり虚弱なものになってしまうという問題点を抱えています。つまり、この時代に子供時代を過ごしたこの世代にしかクリティカルではない作品、というも
のになってしまう。
アニメや漫画などの問題点として、これは実際小学校や幼稚園などで、絵を描かせるとポケモンなどのアニメのキャラクターを描いてくる、という問題がある、というような話をTVやネットの記事などで見かけることがあります。
僕
の弟の世代なんかでもそうですし、僕が中学校の頃とかにもあった問題ですね。これは一種大人の意図しない答え、として教育者や親なんかからは忌み嫌われる
のではないか、と思うのですが、もっと根っこの問題として、大人がアニメやゲームに変わる、より強いリアリティというものを提示できてないということが問
題であると考えています。キャラクターというのはリアルの要素をデフォルメ、つまり強調して作られたもので、言い様によっては、よりリアルな存在とも言え
るのではないかと僕は思うのですが、つまりあれらの作品というものは、如何に子供に受容されるか、という点において非常に洗練されたものとなっている訳で
す。この辺りは努力と報酬やゲーム性の話とも絡み合ってくるので深くは掘り下げませんが、本能により訴えかけるもの、つまり、人間の本能というものは現在
かなり解析されてきていて、その本能に如何にストレスなく受容させるか、という方向性でデザインされたものというもので世界はあふれ返っている訳です。親
や大人というものは、結局保守的なもので、山登りや鬼ごっこみたいな、身体的な遊びやより原始的な意味での自然とのコミットみたいなものこそ情操教育によ
い、と考えがちなのだと思うのですが、その辺りは子供も社会性を持った人間である、という前提によって否定されつつある、つまり、大人に比べて時間がある
子供時代にそのような経験をさせたい、というのが大人の意図であると思うのですが、社会に生きる子供にはそんな時間はない訳です。
如
何にクラスメートと共通の話題を得るか、如何に学校という社会の中で社会的に生きるか、という問題に謀殺されてしまう。それらの問題点を深めたうえでの問
題提起としてそういう作品を趣向するのであれば、それは十分作品として強度のあるものが制作できると考えますが、現状の考えではあまりそちらにコミットし
ようと言う意図はありません。
快
感原則という言葉がありまして、人間が快感を受容するパターンというのはある程度統計のもと規則化されてきている訳ですが、小説よりもライトノベルが娯楽
として優位を占めてしまう、新聞よりは小説が、ドキュメンタリーよりは映画が、というように、水は低きに流れる、とも言いますが、こと娯楽、というジャン
ルではその辺りの理解、解明が進むにつれて、よりこらえ性のない人間でも受容できる、教養のない人間でも楽しめるもの、という方向性にどんどん発展して
行っているように思います。そういう意味では娯楽を志向しすぎると芸術作品としてのメッセージ性はどんどん希薄になる、と私は考えておりまして、その辺り
は要再検討の必要はありますが、今回の発表の段階では、その方向に流れることは考えていない、ということです。
前田先生
Q
自作スピーカーについて、磁石を近づけると音が鳴る、というところでその、子供の話とスピーカーのような現象の興味という所が分離しているという部分に関して説明してもらえないか。
A
現状ではこの部分の感覚的な乖離の問題は解決できていない。
こ
れらは制作過程、特にアイディアの最初の段階であった音を探し、その音が鳴っている所へアプローチする、という鑑賞手法に対し、アフォーダンス、つまり、
如何に自然な形でそのような動作を観客に行わせるか、という問題点の解決策として出てきたアイディアでもあり、音が鳴っている所に手をかざす、というよう
な行為の不自然さを解決する手法の一つとして出てきたという背景があり、一つの問題を解決しようとした結果また別の問題が発生している、という側面があ
る。この問題はもう少し構造を工夫することによって解決できるのではないかと、この問題は今後の課題として大きな比重を占めていると考えています。
Q
年次制作のときの電球を介してコミュニケーションを取る、という作品「関係性の可能性」との連続性、この作品はどういう風に位置づけられるか。
A
前
回中間発表の人と人との関係性を如何に表現するか、というアイディアはレイヤーとしてはかなり直接的なレイヤーに依存していた。つまり、身体接触という直
接的な関係によって人間の関係性を定義しようとする試みであった。今回のアイディアではより高次のレイヤーでの物質と人の関係性から人と人との関係性を模
索する、という、前回の体験型の手法で問題となった個人差の問題、人間の不確実性を排除しようという考えから発展している。
も
ともとパフォーマンスからこのような形態の作品へとシフトしようと思い立ったきっかけは、インプロヴィゼーション、つまり即興演奏を伴うパフォーマンスで
は行為すべてに意味性が発生してしまい確固とした作品構造がなくてもそれなりに作品として成立してしまう、という身体表現という表現に依拠したときの構造
の強さに頼った作品制作から一度脱却したい、という考えから始まっている。
これらの問題を解決する上では三輪先生から作曲、という選択肢もある、という提言をいただいており、今後考察を深めて行く必要を感じております。
小林茂先生
Q
作家の例を挙げて、こんな作品の例がある、~型~型、というような提示をしているのですが、これは何のためにまとめたのか
A
現
状作品の表出方法について悩んでおり、それを解決する上で、メディアアート作品がどのように定義されているか、という部分への考えをまとめたく思いメディ
アアート作品としても評価の高いこれらの作品を分析してみる、という試行錯誤の一環として考えていたもので、後ほどの教員の方々や学生とのディスカッショ
ンもふまえると、今回のプレゼンには必要のない部分であったようにも考えられる。
Q
前の人がこうやってるんで、それをふまえて上でこれと同じような制作方法をとれば面白いものができるだろう、という方向性のことではない?
A
そういう意図ではなく、あくまでも思考実験、勉強としてまとめたもので、これらの情報をプレゼンテーションシートに掲載したことで混乱が生じたことは申し訳ありません。
Comment
発表する上でのレイヤーというものがあると思うのですが、前半の話を後半の話はレイヤーが違う話になっているので、その当たりを人に発表として聴いてもらう、という場合にはもっと整理して発表した方が伝わりやすいものになるだろうと思う。
Q
個人的な子供のときの原体験というものがあって、その、子供の方が優位、という状況のようなものに面白さを感じて、今回の作品を考えたのだと思うのですが、ここで言う大人と子供、というものは何を指しているのか。どこに境目があるのか。
A
最初のイメージとしては親と子供、ということでした。
大
人と子供というのは年齢でパッキリ区切るようなものではなくて、もっと相対的なものを志向しています。大きな意味で言うと、知っていることと知らないこ
と、判断できることとできないこと、受容できることとできないこと、という意味で、精神的な成熟、というニュアンスも含めようとしていたように思います。
現状の社会における大人の定義の複雑化などの問題もあるが、今回のプレゼンでは、明確にこれをもって大人、というような区分を策定することを目的としてい
る訳ではありません。
コ
メントでは上下関係というものにも言及していただきましたが、この辺りの大人と子供、という部分をどのように定義するか、に関しては考察の余地が多く、実
際の経験や、モスキート音が今までどのようにして用いられてきたかなどもあわせて調べ、考察して行きたいと思っています。
2014年2月27日木曜日
詩
・とおいとこから
着払いで荷物を送ります。
こんなにも遠い
異国の地から
あなたはきっと送り返すでしょうね。
テキストを書いて送ります。
そろいのアクセサリー
2つの♡の
それは少しばかり重いとお考えですか?
日焼けを被った(おおった)私の皮膚に
おーい、平ちゃらでしょ?
抜けかけた茶色と煙の白のコントラストがおきれいですね。
毛布の中で当たるひざ、料金後納で
その揺れる髪とタバコの煙
時間よ止まれと念じてみても
そうは問屋が卸さない。
卸すことなどなかったかしら。
あなたにメールを送ります。
返信が早いと
あなたは辟易するでしょうか
よく振ってからお飲みください。
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