2016年5月13日金曜日

「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!オラと宇宙のプリンセス」について

この映画はなんというか、本当に、いろいろなことがうまくいってない映画だと思う。
他の人はどう思っているのだろうと思い、ネットでレビューやら考察を掲載しているwebサイトを覗いてみると、出るわ出るわ、低評価のオンパレードである。
ただ、ちょくちょく見かける感想として、宇宙人のキャラクターが不快である、というものがあるが、この点に関しては、そのように作ってあるのだから、それはそうだろう、と思うし、そこを低評価の基準にするのは過ちであるのではないか、と思う次第である。

この映画に出てくる宇宙人たちは、地球人とは違う環境で育ち、違う価値観の元に生きてきた、地球人とは違う常識を持った人たちとして描かれている。

この点はこの映画をむしろ評価する点であると思う。
社会的な停滞感や、閉塞感、その状況の原因となる問題を「ヒママターの不足」という分かりやすいものとして設定し、違う価値観を持つ宇宙人と地球人が同様の問題意識を共有している、という出発点がある。ただ、その問題を解決するための方法が、価値観の違いゆえに異なる、という非常に難しいテーマを描こうとしているのではないか。
ぶっちゃけ全然子供向けなテーマではない。この映画には明確に悪意を持った敵が存在しないし、仮に宇宙人側の代表、サンデーゴロネスキーを完膚なきまでにやっつけたとしても、物語に設定された問題は解決しないのである。
この映画の鑑賞後の清涼感のなさは結局のところ、設定された問題に完璧な回答というものが存在しえないし、絶対的に正しいと言える選択も存在しないことに起因しているように思う。二つの価値観のすれ違いというテーマは、結局のところ無理やり一つの解法にたどり着かせようとすると、一方の力による屈服か、ご都合主義に流されがちなのだ。
こういうテーマをしっかり描いた作品として、例えば漫画版ナウシカがある。序盤ナウシカとクシャナはお互いの正義のためにすれ違い、終盤では古代文明の意思とも言える墓所の主の主張する論理的正しさと、ナウシカの主張する直感的正しさのぶつかり合いとなる。『風の谷のナウシカ』は異なる価値観を持つ人々と融和してきたナウシカが、最後に絶対に相容れない異なる価値観の正義を打ち倒す葛藤を描いているとも言えるだろう。こういう作品の場合、読者、視聴者の感情移入する側の主張は、だいたい「私たち人間の可能性に賭けましょう」という話になりがちである。『ドラえもん のび太と雲の王国』もそうだったし、本作『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!オラと宇宙のプリンセス』の野原一家の主張もそうである。
そして何より本作のやばいところは、子供向けアニメの設定する問題提起としては難易度の高すぎる「子供は親に育てられることが最も幸せであるか?」という家族のあり方そのものの根幹に対する問いを設定してしまっていることである
クレヨンしんちゃんの映画はだいたい毎回興行収入10億前後の大人気映画である。そしてこの映画を観る層には、かなりの数の子供と親子連れがいるはずである。
家族のあり方や、社会の構造、親と子供の関係性が多様化している現代社会に対して、この問いかけは正直言ってナンセンスすぎるのだ。
一つの解答を示すことは、裏返せばその形ではない家庭を暗に批判することにもなりかねないし、幾つかのクレしん映画を見てきた人ならば感じるのではないかと思うが、クレヨンしんちゃんという作品における「家族」とはイコール「野原一家」のことなのである。だいたいどの作品でも、カスカベ防衛隊を助けに来るのはしんのすけの家族であるひろし、みさえ、ひまわりであり他の子供達の家族は往々にしてモブのような扱いとなってしまっていることが多い。だからこそ、クレヨンしんちゃんは、これがあるべき家族の形である、という主張の強い作品を避けてきたのではないか、と思う。そもそも映画の中ですら子供に対する行動力や情熱、という点で野原一家とカスカベ防衛隊のみんなの親に大きな格差が生じてしまっているのだ。(無論ストーリー上何人も親を活躍させることが、分かりやすさや尺の都合で不可能であるという考えがあるのだろうが)
子供から見たクレしんは、しんちゃんに感情移入して見るものであるので、自分の親であるひろしとみさえ、妹であるひまわりが一番活躍するというのはよく分かる。子供の目線で考えれば、友達の親、というものは正直あまり視界に入らないものであるので、この描き方も納得のいくものがある。大人の目から見たクレしんは、ひろしやみさえを通して、俺、私にもこういうところあるよね、というような部分部分の感情移入を促しているように思える。家族、というテーマを扱っているからこそ、今までのクレしんの映画は、家族というものそのものを根源的に問うテーマを避けてきたのではないかと思う。
ある意味で本作は、今までのクレしんとは大きく異なる路線を目指した冒険作であるとも言える。本来だったら敵に当たるキャラクターたちは明確に敵意を持っているわけではなく、問われるのは家族としての野原一家のあり方である。(これは同じ監督が監督する前作『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ黄金のスパイ大作戦』でも似たようなスタンスを取っていることから、この監督が人気作であるクレヨンしんちゃんの映画を作る上で示すべきと考えた一つの方向性なのかもしれない。)国民的アニメ、という言葉があるが、その国民の生活が時代の移り変わりによって変化していく中で「お前たちは国民的アニメのキャラクターとして本当にそのままでいいのか?」と問うているようにも感じられる。そして、やはりテーマに対して明確な解答を示さない。野原一家はその問題提起を解決することもなく、また、向こうの意見に対し反論する意見を示すでもなく、各人の気合いとがむしゃらさと、なんとなく序盤に出てきた伏線とも言えないような予言と整合性をつける、というご都合主義で幕を引く。異なる価値観をすり合わせるのはある意味で大人の仕事であると言えるだろう。ひろしとみさえは結局、既存の自分たちの持ってる価値観を曲げることもなく、まあなんとなく今まで通りに戻れるしよしにするか、という感じで春日部に帰っていく。彼らは結局のところ、相手の正しさをがむしゃらさというパワーで自分たちの正しさのもとにねじ伏せただけである。
ある意味でこの作品は群像劇なのだ。目指すべき目的のために一致団結して問題を解決するのではない。各人がいろいろがむしゃらにやってたら、なんとなく問題が解決してしまった。という腑に落ちなさがこの作品の弱点とも言えるだろう。しかし、アニメの世界や子供の世界は努力、友情、勝利、みたいなシンプルな方程式が成り立つのかもしれないけど、大人の社会から見えている世界って実際にこんなもんなんじゃないか、とも思う。


やたらと大人と子供、という話をしているが、この作品は子供がいつか大人になる、ということを明示的に示した作品でもある、この路線を示したクレしん映画といえば「未来の花嫁」もあるが、あれは具体的に大人のしんのすけをしんのすけとは別のキャラクターとして登場させてしまっているので、少し方向性が違うだろう。この作品の該当部分は、まさに映画の最後で、ゴロネスキーがしんのすけに、大人になった時にお詫びに贈り物をしようという提案をし、しんのすけが「え〜そんな先?」と言うシーンである。この時のゴロネスキーの返答はこうだ。「そうかな?意外とすぐだぞ?」。

僕はこの描写に、親世代が理解できず許容できなかった価値観のすれ違いに、いずれ大人になったしんのすけが向き合うことになる、という暗示が込められているように思う。
その時にしんのすけは一体どんな答えを出すのだろうか。

というわけで、この作品はとても示唆的で、実験的で、今までのクレしん映画にとらわれない凄い作品であると、私は思っている。


ただ、やっぱり、なんというか、一言で言ってしまうと、つまらないのである。

それはこの作品だけで話が結局解決していない、という物語的な欠陥のせいでもあるし、問題提起に対してとりあえずでも回答を示すわけでもなく、野原一家も今回の騒動で、変わったり成長した点がたいしてないからということにも起因するのだろうが…
そして何より端的この作品は、映画を娯楽としてなんとなく楽しめない作品であるということが大きいのだろう。小難しいことを言いつつも、やはり私も映画に享楽的な、享受しやすい快楽を求めてしまっているのだなぁ、と思ってしまう次第である。

2015年5月28日木曜日

作品のアーカイヴと鑑賞における共時性

 作品をアーカイヴする。これは芸術の範疇などでは大きな議論のある言葉である。
エンターテイメントのジャンルで言えばアニメーショ ン作品なら、DVD、BD化されて、参照可能になること自体は一種のアーカイヴ化の完成と言えるだろう。本で言えば全集、総集編なども一種のアーカイヴで あるし、単行本という形式も、週刊、或は月刊連載された断片のアーカイヴ化であると言えるだろう。

  何かをアーカイヴするときに問題となるのはアーカイヴにどの範囲まで含めるのか、そして、どのような手段でアーカイヴ化するのか、ということである。一次 情報がそもそも記憶可能な形態として発信されるものであれば、その一次情報そのものを保存しておけば良い。しかし、芸術作品で言えば、場所と時間、共時性 に支えられたパフォーマンスアートを映像記録したとして、それはその作品そのもののアーカイヴと言えるのか、という問題がある。

 どこまでを作品と捉えるか。具体的な例で言えば、ジョン・ケージの「4分33秒」は、無音の4分33秒そのものが作品なのか、楽譜を含めるのか、あるいは、ステージ上で上演された空間そのものを作品と捉えるのか。
「4分33秒」は一般に、聴衆のざわめきも含めての音楽作品とされている。
となれば、客席と観客のざわめきを含めて作品とするのか、或は映像での上演を前提として、映像の聴衆のざわめきを再現する空間そのものを想定し、舞台上だけのアーカイヴのためのアーカイヴを作るべきなのか。

  また、永久に再現可能であるか、という問題においては、コンピュータ技術などを用いたメディアアートで言えば、当時のコンピュータ技術に立脚された作品 が、現代の新しいOS上では機能しないなどの問題も発生している。この問題は絵画作品が経年変化でくすんでいく、と言った問題や、彫刻作品、より古い時代 で言えばスフィンクスの雨による浸食、風化などに見られるように、古来から作品を保存することの問題として現在でも目に見える形で存在している。
絵画であれば絵画修復は専門の職業として確立されているし、一部の芸術大学ではそれを専門とした学部も存在する。

  より難しいのは、記憶媒体の出現する前の音楽である、なぜならばその時代の音楽は、指示書として存在する譜面のみが現在に残っており、音としての当時の記 録が存在しないからである。指示書の指示に、例えば時代的な共通認識として欠落している部分があったとしたら、それは後年、本来の形とは異なる形で再生さ れることとなる。
例えばローレンスピッケンという音楽学者の研究では、日本の雅楽は従来、もっとテンポの速いものだった、という分析を行っている。1000年以上の間伝承されていくうちに徐々に異なるものとなっていった可能性を示唆しているのである。

 現在では、映像記録、録音などの様々な記録手法が発達してきた結果、限りなくその時代のリアリティを切り取ったアーカイヴが可能になっているとも言えるが、音楽家の三輪眞弘の主張する“録楽”という考え方に基づけば、“人間によって演奏され、その場で聴かれる音楽”と“人間の手を介さず、複製技術によって聴かれる音楽”は別物であり、記憶媒体はその音楽のアーカイヴではあれど、音楽作品そのものではあり得ない、ということとなる。では、録楽は音楽の完全なアーカイヴと言えるだろうか?
(参考:http://tower.jp/article/series/2011/10/13/Masahiro_Miwa

  作品を連綿と続く人間の文化の通時性のベクトルの上に横たわる共時性の産物として、その作品を鑑賞した時代の人々の感覚や、当時の社会的雰囲気までを作品 として捉えようとした場合、そのアーカイヴは非常に膨大な情報となるだろう。あるいは、そのようなアーカイヴなど不可能であるのかもしれない。

先日Twitterでリツイートされてきたツイートにこのようなものがあった。
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まったく同じ文脈で先日、大学生の漫画好き男子に「大友克洋の何が凄いのか全然わからない、『AKIRA』も『童夢』も他の漫画によくあるシーンばかり じゃないですか」と言われて立ちくらみがした。本当に世界を変えてしまった才能は、その後の世代からは空気のように透明な存在になってしまうのだ。
https://twitter.com/C4Dbeginner/status/595949410590261250
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「AKIRA」「童夢」はある意味でそのジャンルの開拓者であったからこそ価値が担保されている部分が在る。新規性の評価はその時代が過ぎてしまえば理解されないものとなるし、当時感じることの出来た感動は時代が変わってしまえば理解できないものとなる。

 たとえばアンディウォーホルの実験的な映像作品群は現在ではAfter Effectsの効果を使えば再現可能であるものが幾つか在るが、それが容易に再現可能であるからと言って、その作品に置ける新規性が損なわれるわけではない。

 SF作家、テッド・チャンの短編集「あなたの人生の物語」の中に「顔の美醜について」という一遍がある。この物語では、脳科学の発展の末、意図的に脳に機能障害を起こさせる“美醜失認処置(カリーアグノシア)”という処置が安全に行えるようになっている。様々な人々が、人間の従来的な評価基準は、外見でなく内面であるべきである、という信仰の元、外見による評価基準を意図的に欠落させる、という未来の社会を描いた作品である。
本作品の中では、過剰に発展した脳科学が、人間の認識操作することと、過剰に発展した広告手法によって、脳科学によって操作されていない人々が煽動されてしまう、という二重構造を一種皮肉を交えて描いている。
 (参考:あなたの 人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 また映画マトリックスではデータとしてアーカイヴされた格闘技の情報を、脊髄に接続された端子から書き込むことで、経験すること無く習得する、と言った場面が描かれているし、攻殻機動隊では電脳に直接銃の制御ソフトを書き込んで銃を使用すると言ったシーンも存在する。
マトリッ クス スペシャル・バリューパック (3枚組)(初回限定生産) [Blu-ray]

攻殻機動 隊 (2)    KCデラックス

 この、安全なブレインストーミングが可能となった 時、鑑賞者は作品を鑑賞する前にブレインストーミングを受け、作品発表当時の時代の記憶を埋め込まれた上で作品を鑑賞する、といったことが可能となり、 我々はフレッシュなナムジュンパイクを体験することが出来るようになるだろうか?

2015年5月9日土曜日

メトロポリス考

「ケンイチ…私は誰?」

もはや涙枯れ果て涙線からはここ数年涙などというものは顔を出さぬ私であるが、アニメ、メトロポリスのラストシーンのこの台詞を聞くと少し目が潤む。
メトロポリスという作品は手塚治虫の原作だけでなく黒田硫黄が漫画化してたりとなにかと原作者以外の他者の視点の介入のある作品である。

原作にミッキーマウスが出てくることは余録であるが、昔先輩が、改めて原作を読み直すと、ケンイチくんがなんだかんだでひどい奴という話をしていたことを思い出す。同じような指摘を黒田硫黄も行っているが、ケンイチくんは言うまでもなく結構俗物的で、機械故の純真さをもつミッチイなどと並べると結構ひどい奴なのである。まあそれでも、あくまでどこにでもいる普通の人、というレベルでひどい奴、というくらいであるが。

同じ漫画という土俵で制作された黒田硫黄のメトロポリスは私の好きな漫画の一つである。原作でのミッチイは神聖な両性具有、或は純真で高潔な少年性のようなものを前面に押し出されたデザイン、つまりアトム型の少年ロボットなのであるが、黒田硫黄の描くミッチイはスれた青年、つまり男としての側面を強くデザインされている。ミッチイのことを忘れているケンイチくん、原付で事故るわさっき出会った男と寝るわとせわしない女、主体性のないレッド公、と基本的にキャラクター達は場面場面をしっちゃかめっちゃかにかき回す。割とまじめに配役に殉じているランプやハムエッグがかわいそうなくらいである。取り繕ったように人口密度増加、ビルの乱立、野球は観戦するものであってするものではないといった価値観が当たり前となっているほどに遊び場のない町といった社会批判のようなものも垣間見えるが、それぞれのメッセージ性がごった煮になっていて、もはや何が言いたかったのかよくわからない。人間達よりもロボットであるミッチイの方が古典的な人間らしい生活に理解を示すなど、汚れた人と純真な機械というアトムに近い構造で語られるものの、目的を達成したミッチイが野球をやってる最中にケンイチくんがバットで打ったボールに直撃して死んだり、改めて考えてみると、本当に、一本筋が通って話が終わる、ということはない、オモテニウムの影響で太陽の黒点増え続けるし、万年浪人生のケンイチくんの自己の葛藤が解決される訳でもない。しかしこの漫画では、まごうこと無く、自分という生き物をまっとうしているキャラクター達が好き勝手に動き回る。それで綺麗に大団円にまとまる訳もないし、当たり前に当たり前な話である。ケンイチくんは自分自身が何であるのか、という答えを、結局女で満たそうとするし、問いを超越していたミッチイに対して強いコンプレックスを抱き続けていた。レッド公も全ての指示を超人であるミッチィにゆだねようとしていたが、この辺りは原作のミッチィの純潔な高貴さに惹かれた人々という構図と、目的のためなら手段を選ばないというある種純粋で超越的なミッチイに惹かれた人々、という形で非常に似ている。

合目的的であるために、ミッチイはどちらの作品でも最終的に「私は誰?」という問いをもたない。いや、表面的にはもたないかのように見えるのである。原作のミッチイは特に「私は誰?」と言う問いを自身のアイデンティティとしての内面の問題ではなく、人間であるのか、ロボットであるのか、という単純な帰属の問題として捉えているように思う。

映画メトロポリスの方に話を戻そう。
ミッチイに当たるキャラクターは少女型ロボットのティマであるが前述の通りこの作品ではミッチイは少女なのである。アバターが明確に少女になった、ということで映画メトロポリスは非常にBoy meet Girl色が強くなっている。黒田硫黄はメトロポリスの帰着点を野球と女に集約させたが、この映画では、男と女、人間とロボットという構図がかなり強く現れている。男と女というものがわかりあうことが出来るのか、ティマは自分が、そしてケンイチはティマが誰であるのかと言う問いに如何に答えるか。という構造となっている。自らを襲ったティマを救おうとしたケンイチは独りよがりで惰性的ながらも回答を示したと言えるが、その回答は果たしてティマにとっての正解であったのか、最後に「私」を確立させた「ケンイチ」の名を呼んで、「私は誰?」の言葉とともにケンイチの手を握り返さずにティマは落ちてゆく。

「僕はケンイチ、君は一体誰なんだ?」
「キミハイッタイダレナンダ? 」
「ちがうよ、いいかい、君は自分のことは私、って言うんだよ」
「ケンイチ」

「私は誰?」

2015年2月2日月曜日

メモ

知覚のあわい —知ることと感じること

「私たちは動くために知覚しなければならないが、知覚するためには動かなければならない」
—ジェームズギブソン

0.はじめに
知ることと感じることの関係性について
 さわりに、渡邊恵太の「カーソルによる手触り感提示システム」[渡邊 2003]に触れる。

VisualHaptics: カーソルによる手触り感提示システム
http://www.persistent.org/visualhaptics.html

 今回のゼミでは芸術作品における知覚と感覚について考えてみようと思う。古典から近年の若手作家までの作品の紹介とともに、今回はテーマを視覚に絞り、それらについて論じる。

1.感じること
身体感覚を用いた作品群
「Open Field」-「バーチャルボーイ」-「見ることは信じること」

 影の存在しない空間で無限遠を体感させるジェームズタレルの「Open Field」 [2000]、Ledとミラーによる構造で人間の視覚に立体感を与える任天堂の3Dゲーム機「バーチャルボーイ」[1995]、そして 裸眼では認識できない赤外線LEDを赤外線スコープで覗いたときに、文章として他人の生活を覗き見ることが出来る“見えないモノの存在を視る装置”、八谷和彦の「視ることは信じること」[1996]の3作品をもとに、感じることについて話す。

2.知ること
計測することを用いた作品群

「雲を測る男」-「視点ユニット」-「物的証拠」

金沢21世紀美術館の屋上で椅子の上に立ち雲を物差しで測る男の銅像、ヤン・ファーブル「雲を測る男」[1999]、ホワイトキューブ(白い箱)2閉じ込められたカメラが各種の計測機器を撮影し続けることにより撮影されていない範囲までに映像の可能性を提示する、時里充の「視点ユニット」[2014]、そして、出来事と、その出来事が現象として引き起こす痕跡/証拠を題材としたOAMAS谷口暁彦研究室の「物的証拠」[2014]の3作品を元に、知るということについて話す。

3.いつもどこかで視られている
無自覚な知覚、無意識の感覚について

「アイ・オー —ある作曲家の部屋」-「歩行者用通路の錯視シート」-「Painstation」

毛利悠子の「アイ・オー —ある作曲家の部屋」[2014]は、一種のインタラクティブ性をもった作品である。そこにある楽器やブラインドなどの日常から持ち出したような品々は、そこにやってきた鑑賞者の持ち込んだホコリによって描かれた楽譜を元に、自動で演奏されていく。鑑賞者はそうと知らされるのでなければおそらくその意図を永久に汲み取れないであろう。そのいずれか、が知覚されるということ。

村上郁也の特許である「歩行者用通路の錯視シート」[2008]は、目の錯覚を利用したよ後者の誘導手段である。この錯覚による意図せぬ人体の制御は人間の感覚と知覚の関係性を揺るがすものとなるだろう。
http://astamuse.com/ja/published/JP/No/2006002431

/////////fur//// art entertainment interfaceの「Painstation」[2001]は対戦型ゲーム筐体の形式をとるテレビテニスゲームである。しかしこのゲームは、テレビテニスの失点ごとに
プレイに使わないほうの手を鞭のようなデバイスで殴打する。ゲームという勝敗と優劣、競争の遊びにおける人間の機微を、否が応でも認識せざるを得ない構造となっている。
この作品をプレイすることによって、痛覚という逃れ得ぬ感覚から自分自身の内面を知ることとなるのだ。

4.拒否、そして知覚不可能であること。

「無題」-「黒の正方形」-「L'Origine du monde」
白のみのテクスチャーでカンバスに描かれたジョシュ・スミスの「無題」[2014]、白地に黒い正方形の描かれた、ただそれだけの絵、カジミール・マレーヴィチの「黒の正方形」[1915] そして光を吸収する顔料を用いて描かれた無限に深い穴、アニシュ・カプーアの「L'Origine du monde」[2004]これらの作品について


以下に引用した作品について、適当なリンクを羅列する。

ジェームズタレル,「Open Field」,2000.
http://jamesturrell.com/artwork/open-field/

hamatsu,任天堂失敗列伝~第三回~「バーチャルボーイの巻」,2015/2/2チェック.
http://d.hatena.ne.jp/hamatsu/20090510/1241950896

八谷和彦,「見ることは信じること」,1996.
http://www.petworks.co.jp/~hachiya/works/jianrukotoha_xinjirukoto.html

ヤン・ファーブル「雲を測る男」,1999.
https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=30&d=3

時里充「視点ユニット」,2014.
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2014/Openspace2014/Works/Viewpoint_Unit_j.html

思い出横丁情報科学芸術アカデミー 谷口暁彦研究室 「物的証拠」,2014.
http://materializing.org/14_oamas/

毛利悠子「アイ・オー —ある作曲家の部屋」 ,2014.
http://yokotori-art.tumblr.com/post/100816852651/4

ジョシュ・スミス「無題」2014.

カジミール・マレーヴィチ「黒の正方形」,1915.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E3%81%AE%E6%AD%A3%E6%96%B9%E5%BD%A2

アニシュ・カプーア「L'Oringine du monde」,2004.
http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?d=5&g=30


2015年1月28日水曜日

芸術に関する覚え書き。

芸術に関する覚え書き。

・芸術は可能か?
 芸術作品というものは古くから創作され、また文化的、教養的価値を示す明確なものとして、社会的に保護され、また教養として伝えるために様々な国が美術館や博物館という形式で収蔵、保存、展示を行っている。
 しかしこの芸術というものがどういうものであるか、また、どういうものでないか、という部分に関しては、様々な評論家や芸術家自身によって明瞭確乎とした定義を求めようという試みはあったものの、明確な芸術を芸術足らしめる要素というものは、言語化し切れていない部分がある。
 特に古典以降、より自由なものとして発展してきた芸術は、絵画におけるキャンバスと油絵の具、彫刻における大理石や木、身体表現における場にいたるまで、従来のメディウム(媒体)にとらわれない表現手法を確立していった。ミニマリズムがポストミニマリズムに、ポストミニマリズムがインスタレーションアートに、と文脈を踏襲してつながっているように、それらの作品群は、それまでの作品のアンチテーゼであったり、その時代時代に対する表現手法として、様々な形を取ってきた。ここに至って、芸術というものはどのようなものであるか、という定義が、明瞭確乎としたものである、ということはどのような論法をもって言うべきであろうか。岡本太郎は「芸術は爆発だ」と言ったが、このようなセンセーショナルで強い言質は、あくまでもその個人の想いによるところが強いように思われる。

 その中でもメディアアートというジャンルにおいて馬定延が著書「日本メディアアート史」において行った「国内外を問わず、言葉の射程が定まっていないなか、本書では「メディアアート」を作家と作品と観客を取り囲む環境としてのテクノロジーの発達に伴う社会現象として、またそれに対するアーティストの取り組み方の問題として定義してみたい」 という定義は、既存の芸術史における芸術の独自性、という観点をあえて排し、社会との関係性という点にクローズして語るという具体性において、従来の芸術の定義と違い、非常に柔軟性のある定義であるように思う。それはボイスの提言した社会彫刻という概念に連なる発想であるとも考えることが出来るだろう。芸術作品はその芸術作品が独自に芸術性を担保する訳ではなく、その場と環境との関係において芸術性を担保するのである。

・サイトスペシフィックな芸術
 サイトスペシフィックというのは芸術と場所、つまり作品とそれがおかれる空間というものは不可分である、という考え方である。この考え方は、美術館のように展示ごとにその配置が変わる、また、作品の設置に作家の完璧な意図の介入を許さない制度に対する反発でもあり、ホワイトキューブのような白い隔離された展示空間や美術館という既存の場所性への批判でもある。 
 キャロル・ダンカンは芸術を美術館の機能と共に記述している、「美術館というリミナルな空間では,あらゆるもの—ときにはどんなものでも—がアートになりうる」と。現実という空間から隔離され、一種のメタ的な視点でもって様々な事象を問い直す、その芸術の性質はこの美術館のもつ、再考する場という機能によって担保されてきた部分が少なからずある筈である。これは古くはデュシャンの泉のような、美術館という機能と権威に裏打ちされた作品の存在からも窺い知ることが出来る。

参考文献
馬定延、「日本メディアアート史」、アルテスパブリッシング、2014
キャロル・ダンカン、「美術館という幻想 儀礼と権力」、水声社、2011

2014年11月27日木曜日

Nabi Hackathon : PAN Innovation for Good

Nabi Hackathon : PAN Innovation for Goodへの参加の記録


日がな一日研究に明け暮れている私は常々、どうにかして数日でもよいから研究室から抜け出し、青々とした空のもと青春を謳歌することはできまいか。あわよくば南の島などで過ぎ去った青春の甘い汁をちうちうと吸うことなど叶うまいか、などと不真面目なことを考えていた。そんな折に、私は先生からこの話をいただいた。11月後半のこの期間、制作に余裕があるなら韓国に行ってくれないか、というお話に、私は後先顧みず飛びついた訳である。

今回のハッカソンの会場は韓国のチェジュ島にあるICC Jeju、日本の初台にあるICC(InterCommunication Center)と同じ略称であるがInternational Convention Centerの略称であるとのことである。

相変わらず金のない私は2万円を16万ウォンばかりに両替し、鞄にたくさんの電子部品をぎゅうぎゅうに詰め込んで日本を発った、さようなら日本の人々、あわよくば今の二倍も三倍も大きな人間になって、私はこの地を再び踏むだろう、大体四日後くらいに。

事前に同じ研究室の韓国人の友人に聞いていたのであるが、チェジュ島と言う島は日本で言う所の沖縄のような島であるようでみかんのうっそうと茂る南のパラダイスであると言う。

かくして留学などでふらふらとヨーロッパやアメリカには行ったことはあるものの実は日本以外のアジアの国には行ったことのない私は大きな期待とともに韓国を訪問したのである。
韓国と言うのは日本にとても似ているが似ているようで様々な違いのある面白い国である、というのは私の先生の言であるが、韓国の空港に降り立ってはじめに感じたのは、日本と似ている情景、しかし異なる文字、異なる言語、という、不思議な空間であった。

ICC Jejuではまず初日にスーツケースエキシビジョン、ということで、現在の作品や研究を持ち込んで展示した、現在大学で修士作品として研究している「"Toru"モスキート音によって年の功を逆転するゲーム」 という、こどもが大人に勝つためのゲームを展示させていただいた。(作品紹介http://johnsmithworksforgakuseicg.tumblr.com/ 論文のリンクhttp://dl.acm.org/citation.cfm?id=2662973


 初日の夜はホテルの1階で今回のイベントのリーダーであるArt Center NabiのSi Woo Kimという方がアーティスト同士のフレンドリーな雰囲気を作ることに尽力してくださり、大変素晴らしいスタートとなった。我々はビールと、とても辛い韓国のお菓子やカップ麺に舌鼓を打った。このパーティーで我々は大変打ち解け、大いに語り、半数近くが飲み過ぎで翌日遅刻したのは余談である。写真は韓国のあずきバー。


 


二日目からはハッカソンの本番である。
韓国と言う異国の地でどんな寂しい思いをするだろうかと、出国前はびくびくしていたが、いざ行ってみたらなんとに日本からの参加者は私が学部時代に在籍していた多摩美術大学のセンパイ方や関わりのある早稲田大学の生命美学研究の知人など、顔見知りが多く、何より私の大学から後輩がふたり来ており、これで異国の地で生まれたての子鹿のようにプルプル震えなくてもよいと大変安心した。

 初日はまずアーティスト同士の作品を見ながらの自己紹介である。



プロジェクションマッピングと物理ギアの連携やアイトラッカー(目線を検出する装置)実験的な映像作品やテクノ手芸など様々なジャンルで活動する人たちの自己紹介を聞きながら、私は自分の発表を今か今か緊張して待った。私は目立ちたがりだがシャイな性分であるので、人前に立つのは好きだが苦手という非常に面倒な人間である。なんだかんだと英語では数回目のプレゼンであることと、イベント全体のフレンドリーな雰囲気のおかげで何事もなくプレゼンを終えることができた。


 ハッカソンではグループワークと言うことで、日本人の広告ディレクターの古屋遙さんと、韓国のアーティストユニットであり前回のアルスエレクトロニカにも出展していたJunbong Song、Jaehyuck Bea、そして私というメンバーでのグループディスカッションからの制作と言うことになった。

まずはみんながどのような技術やアイディアを持っているか、という話から始まりディスカッションを進めた。
Song、Beaのコンビはアーティスト兼エンジニアと言う様なタイプで、手持ちのものはLedビーコンとセンシング用のカメラ、アイトラッキング用の機材、3Dデータ制作フィジカルコンピューティングなど様々な技術と手持ちの機材の話、この機材でできるアイディアなどを話してくれ、私は興味津々でその話を聞いた。

遙さんは映像系の広告ディレクターで、フィジカルコンピューティングや様々な技術を使った斬新な広告宣伝、店舗でのイベントの企画などをやっており、本人も映像作品を作っているという方であった。ちょうど話題に上がった仕事に自分の先生も関わっており、また、興味があるジャンルであったこともあって大変楽しく話を聞くことができた。

私はというと、手持ちの技術としては前出の研究であるモスキート音関係ものと、学部の頃やっていたデバイスパフォーマンスのときに培った電子工作技術、Max/MSP、そして修士前半に行っていたスピーカー構造を解体したコイルと磁気、音響と振動に関する研究の一部である。
メンバーは特にこの音響関係の技術に大きな興味を持ってくれて、大まかには私のアイディアを採用することになった。

その日は焼き肉を食べた。


三日目は朝から本格的に制作である。
私の英語はそのほとんどをアメリカのホームコメディーやモンティパイソン、シンプソンズなどによって学んだものであるので、往々にして難しい話がうまくできず、要所要所つたわりずらいところは図を使いながら話すなど試行錯誤しながらコミュニケーションを取る、この過程が大変面白かった。


全員で話し合いながらどのような作品が作れるか、というディスカッションを重ね、最終的にスピーカーの構造を応用し、音楽の電気信号を磁気に変え、磁石の指輪で音楽を音ではなく指で感じる。と言うものになった。

 これが決まってからは非常に早かった。ディスカッション自体もディレクターとして活動している遙さんの立ち回りによりスムーズに進行したこともあるが、BeaとSongのコンビの仕事はまさに鬼神のごとき速度であった。こういう構造のものがほしい、という話になったら、私が少しぼんやりしている間に、もう3Dデータでデザインのアイディアが形になっており、私は大変驚いた。うかうかしてはいられない。プログラミングはBeaと私で分担し、SongとHarukaさんがプロダクトのデザインと3Dモデリングさらに遙さんはプレゼントと全体のディレクションを担当した。

ハッカソンというイベントの特徴でもあるが、私たちは休むことなく(間に主催側の用意してくれた優雅な昼食を挟んだものの)制作に明け暮れ、何とも形容しがたい味で有名な韓国の炭酸飲料メッコールを飲みながらコイルを巻き、プログラムを書いた。
Beaの書いたprosessingのプログラムと私の書いた音響部分のプログラムをどのように連携するか、など話し合いながら作業し、このような形で他の人とものを作って行くと言うプロセスは今までの人生の中であまり経験したことがなく、学ぶ所が多かった。

前項で書き忘れたが今回のフライトでは、エコノミークラスが満席とのことで、エコノミーの料金でビジネスクラスに乗ることができたのであるが、私はとにかく気を使われたり、あまり関係のない人に何かしてもらうと言うことが非常に苦手である(これは先生とかセンパイのようなケースは除く)。もう気を使われることに気を使いすぎて、生きた心地がしなかった。人間には分と言うものがあり、ビジネスクラスは私にとって分を過ぎたものであると言ってよいであろう。しかし例えば大きな仕事をするとき、大きな作品を作るとき、必ず人の手を借りなければ行けないであろうことは目に見えており、こんなままではいかん、と考える訳である。今回はグループワークという、分担とそして信頼して任せると言う作業が必然となる形態の中でそのようなことを考えながら制作を進めることができた、それぞれの得意分野が合わさった結果様々な相乗効果が見られ、また、根っこの技術的アイディアが僕のものであっても、どのようにみんなが考え、どのようなものが良いものかというおのおのの哲学がぶつかり合う環境の中でできたものは、絶対に私だけでは想像できなかったものとなった。

これが完成した「Silent Speaker」である。


これは磁石のついた指輪を穴の部分に入れることで音楽の振動を耳でなく指で感じ取ることができる作品である。
見せ方やタイトルなどは遙さんが主導して進めてくれた。



発表は大変好評であり、我々は大いに喜んだ、喜びすぎてその喜びの声は日中韓三国に響き渡り、北京の蝶が驚いて羽ばたき、ニューヨークで嵐が起きたと言う。


我々の他にも海水を吹きかけたリンゴとミネラルウォーターを吹きかけたリンゴ、二つの変化の過程を展示する装置など、リサーチ色の強いものもあればアプリ開発など、様々な形での発表があり、大変刺激的であった。

晩ご飯はなんか豪華な、海鮮鍋のようなものであった。余談であるが韓国の料理が辛すぎて私はこの三日間ずっとおなかが痛かった。辛いけどおいしいので、つい食べ過ぎ、しかも辛いので胃にくるのである。次の機会があれば辛さ控えめのものにトライして行きたい。


チームメイトと、作品に触発されて様々なアイディアを提案してくれた参加者、多くの刺激を与えてくれたアーティスト、そして参加者を幅広くサポートしていただいたSi Woo Kimさん、渡航などのサポートをしてくれたSoeun Kimさん、Art Center Nabiの方々、このハッカソンを紹介していただいた先生方にここで感謝の言葉を述べたい。もはや足を向けて寝ることができないので私は今後地面に足をつけて眠らなければなるまい。

私は三国一の果報者である。
そして何よりの収穫は、このイベントの中で多くのアーティスト達と国を超えて友人となることができたことだろう。


最後に韓国で見つけたガリガリ君っぽいアイスの写真でこの記録を締めようと思う。
帰国の便が早朝過ぎてこの後もうひと騒動あるのであるが、 それはもしも話す機会があったらまたの機会に。

匆々頓首
johnsmith



2014年7月23日水曜日

書評、横井軍平ゲーム館


横井軍平ゲーム館 RETURNS ゲームボーイを生んだ発想力 

横井軍平は、花札の任天堂をゲームの任天堂へと変えた立役者であり、ゲーム&ウォッチ、ゲームボーイ、ヴァーチャルボーイなど、彼が世に出した商品の名前を聞けばピンと来る人も多い だろう。本書は横井軍平と牧野武文の対談という形で横井軍平の設計思想が語られる。 僕らの世代からすると、なんだゲームボーイを作ったくらいで、そんな大きな顔をされても困る。などと感じる人も居るかもしれないがファミリーコンピュータ以降のカラーのゲームと比べたときに浮かび上がってくるその発想の方向性の違いは目を見張るものがある。 

本書の中でも特に目を引くのは、氏が入社後、ゲームハードの開発以前に行っていた、単純な機構を用いたインタラクティブなおもちゃ群である。高性能なマジックハンドや、エレコンガ という電子楽器、左折しかできないが安価なラジコン、それを応用したルンバのような卓上掃除機、太陽電池をセンサーとして用いた光線銃など、氏のアイディアは枚挙に遑がない。 

これらの中でも最も私が興味深いと思ったのは、ラブテスターという検流計を用いた二人の愛 情をはかる機械、というふれこみで売られたおもちゃである。これを横井氏は堂々と「公然と女の子の手を握るための道具」と言ってのけている。構造としては検流計によって人間に流れ ている電気を測定し、手を握ったときの接触具合や、緊張感による発汗量の違いで流れる電流 の変化を可視化する、言うなればほぼ嘘発見機と同じ構造のものである。それ自体では何の意 味も持たない検流計を「女の子と手をつなぐ」という環境を演出する道具としてリ・デザインした考え方は、昨今のメディアアートに置ける発想の転換と大変近しいものを感じる。 

「ゲームで遊ぶ人はマニュアルなんか読まない」「四万円も五万円もするものが、娯楽品として 売れる訳はない、一万円を切ったら売れるかもしれない」などの受け手の心理への考えや、「人間は色を概念としてみる」「キャラクターはハウツープレイの役割を担っている」と言った認知科学やアフォーダンスへの言及、また、ラジコンは左折さえできればレースはできる、といった発想の転換など、数々の見識とアイディアがひしめいているのが本書である。 

「枯れた技術の平行思想」これが横井氏の設計哲学である。 これは枯れた、つまり、使い古されて安くなった技術を、主観的な目線で垂直に見るのでなく、客観的、ある種メタ的な目線で水平に見渡してアイディアを発想する、ということである。 これらの思想に触れることは、もの作り、とくに工業ベースでないメディアアート作品を理解 する上で大いに役に立つと思い、本書をみなさんにおすすめしてこの書評を締めることとする。