「お、長門だけか」
部室のドアを開けるとそこには窓辺で本を読む長門がいるばかりであった。
「そう」
長門はわずかに頷くような仕草とともに、そう答える。このわずかな角度の変化を感知できるのは、世界広しといえど俺くらいのものだろう。ふと、長門読んでいる本が気にかかった。
「なにを読んでるんだ?」
長門はわずかに首をかしげるような仕草をする。このわずかな角度の変化を感知できるのも、やはり世界広しといえど、俺くらいのものだろう。少なくとも陸上では俺だけだという自負がある。俺が潜水できる海の深さより先の深海にいるかどうかは、確認できないので考えないこととする。
暫くして長門は俺の言ったことを理解したように、本の背をこちら側に向けて示した。長門はめちゃくちゃ頭もいいし回転も速いはずなのに、基本的に普段の挙動がスローなんだよな、などと関係ないことを考えながらもその本のタイトルに目を走らせる。
そこには『ジョン・レノン対火星人』というタイトルと、うまいんだかへたなんだかよくわからない絵が載っていた。
「高橋源一郎という人の小説…」
長門は−30dbで小さく付け加えた。
「面白いのか?」
長門は0.7mmほど顎を引いて困ったようにコンマ数ピコメートル眉をあげたかと思うと、2mmほど口を開いて「面白い」、と答えた。この仕草の示すサインはこれから小一時間怒涛のオタク語りが始まるがそれを聞きたいのか聞きたくないのか?という確認の意味を含んだジェスチャーである。
「2分37秒41ほどで簡潔に頼む」
と俺が言うと、長門は
「3分5秒61より簡潔に話すと意思疎通に齟齬が発生すると思われる」と答えた。
「2分47秒29くらいでなんとかならんか」
と俺は粘ってみる。
「高橋源一郎の他の作品を読んだことは?」
「存在すら知らん」
長門は眉根を2ミリほど寄せ、やや困ったような表情を作る。眉根が2ミリは『やれやれ、あなたの無知無教養ぶりにはうんざりする、幼稚園からやり直して欲しい』という主張を婉曲に俺に伝えようとする時に決まって長門が発するサインである。実のところ俺はかなり頻繁に長門にこれをやられる。
「間でまったく息継ぎをしなければ2分56秒57までは短縮できるがそれ以上は発話に齟齬が発生することになる」
長門の瞳が28μmほど揺らぐ、これはまだ押しても大丈夫なとき、申告した情報に余裕をもたせているときの長門の癖のようなものである。
「2分52秒20ならどうだ…?」
「2分53秒81」
「よし」
この辺が限界だろうと見切りをつけ、俺はポケットからストップウォッチを取り出し、カウントの準備をして長門にゴーサインを出す。
「ジョンレノン対火星人というのは作中冒頭に出てくる刑務所の野球チームの三塁コーチャーが出す『左のきんたまを2度、右のきんたまを一度握る』というサインの発する指示に由来するその三塁コーチャーが自殺してしまったためその『ジョンレノン対火星人』というサインが意味するものはわからないままだったがその辺はとりあえず置いておいて物語は基本的にポルノグラフィ作家の主人公「わたし」同棲相手のパパゲーノ友人のヘーゲルの大倫理学ホステスのテータムオニールそしてきちがいの素晴らしい日本の戦争の5人を中心に物語が進んでいく様々な死体を幻視するきのちがってしまった素晴らしい日本の戦争を治療するためにセックスさせたり試行錯誤をするが、最終的に素晴らしい日本の戦争はきちがいのふりをしていただけだったことがわかるそれでも彼はきがちがっていないだけで様々な手法で殺された惨殺死体を幻視し続けてしまうということは自体は事実だったので結局耐えられずに死んでしまうそして素晴らしい日本の戦争を治療しようとしていた「わたし」たちは街をゆく人々をみな死体として幻視することになるこの作品の何が面白いのかというと作品自体に使われているあまりにも日常的な文体で理路整然とした文章という形態であまりにも異常な情景が描かれ続けることで私たちの日常が本当に正常であると言い切れるのだろうかという猜疑心を芽生えさせるところにあるひょっとしたら私たちの日常は非日常なのではないかそもそも日常などというものが存在するのかそれはそうとこの本を読んでいたということはこの小説はまだ読み終わってない状態であるということで読み終わってない小説をなぜわたしがここまで克明にオチまで説明できるのかということは深く触れないで欲しい」
2分53秒81
ぴったりである。さすがは長門だ。長門は目を150nmほど細め、眼球表面の水分量を0.7dℓほど貯めてこちらを見た。これは俺に反応を求める時のサインだ。
俺は眉を2度2ミリほど上下させ長門をじっと見つめる。これは『なるほど、さっぱりわからん』のサインである。
長門は目により多くの水分を貯めた(およそ7décilitreほど)、どうやら先ほどの俺のサインが3μsほど動作が遅れて『おまえの話は全然わからんし熱心に話してるその姿がキモい、死ね』のサインになってしまったようだ。目から涙をボロボロとこぼす長門は俺に背を向けると窓を開けて飛び降りようとする。
「おい、なにやってるんだ長門!ここは一階だぞ!」
なんとか組みついて静止させることに成功したが長門の内包するパワーは2000万馬力はゆうに超え、瞬発的(秒数にして30μsほど)に腕から発せられる力は80億kgfにも達する。
俺は四肢から血を1700mlほど吹き出し内臓は八割ほどやられてしまった。治療費に換算すれば200万はくだるまい。(昭和40年の200万は現在の2000万)
「…情報の伝達に齟齬が発生したかもしれない」
長門はそういうと少し落ち着いた様子を取り戻し、左のきんたまを2度、右のきんたまを1度握った。
これは『ジョン・レノン対火星人』のサインだ。
「…待て、長門。おまえにはきんたまはないはずだよな?」
ー「ジョン・レノン対長門有希」完
2016年10月20日木曜日
2016年8月9日火曜日
荻原楽太郎個展「失楽園」を見て
撮影:荻原楽太郎
私自身パフォーマンスの撮影などで時々お世話になっていた楽太郎氏の展示を見に来た。大きな仕事を8月中旬から控えており、果たして私に今東京に出かけて展示を見に行く余裕があるのだろうか、などとウンウン悩んでいるうちに、そもそもこの悩んでいる時間で展示を見に行けるのでは…?と思い、一念発起して東京に足を運ぶことにした次第である。
蒸し暑い8月の東京に向かう電車内はエアコンが大変よく効いており、むしろ肌寒かった。割と薄着で来てしまい服の選択を間違えたとつくづく思った。
半蔵門線に乗り換え、半蔵門で降りる。半蔵門線はどうやら半蔵門駅があるから半蔵門線なのであり、半蔵門駅は近くに半蔵門という門があるので半蔵門駅というそうである。さらに言うと半蔵門はもともと徳川家の家来、服部正成、正就の通称「半蔵」に由来するそうで、本来の半蔵門は太平洋戦争で焼失し、現在のものは和田倉門の高麗門を移築したものであるという。
その半蔵門駅から、暑さにやられてぼんやり歩いているとすぐつくような距離に今回の展示の会場「ANAGRA」は存在する。
地下1階に位置する展示会場は、全面がコンクリートで作られており、白塗りにされたコンクリートブロックに70枚以上の写真が展示されていた。展示会場中央にぽっかりと空いた穴は、狭い地下のスペースにつながっており、かつて貯水槽であったその狭い空間にも写真が展示されている。この展示空間はまさに楽太郎氏が今回展示している「失楽園」(と今回の展示ではぼかして呼称されている)と似た雰囲気を醸し出している。
私自身も彼が被写体として撮影する「失楽園」に所属していた時期があり、私がこの展示によって最も大きく揺さぶられた感情は一種の「郷愁」であった。
それは私がかつて子供だった時代、若者だった時代のフラッシュバックであり、立ち込めるタバコの煙や、燃え爆ぜる生木の臭い、炎に艶かしく照らされる人間の肌の性的な魅力であったり、家ではない空間、つまり居住スペースではない一種の共有スペースで解放される他人のだらしなさ、人が最も獣に近づく瞬間であったり、暗闇の中での友人との語らいであったり、半袖の腕に感じる湿度、肌に当たる水の冷たさや、肌寒さの中で感じるマフラーのぬくもりであった。
私は、私達は、かつてこのように生きたのだ、という記憶が、そこにはあった。
かつて私はあそこにいて、そして私はあそこを思い出し、実際に訪れることはできても、もはやあの楽園の一員になることは永久にかなわないのだ、という小さな絶望。
若かりし時の、未来への不安や希望、よくよく考えたら、私などあの「楽園」を失ってからもそもそも本質的には大して変わっていないのではないか、という落胆。
この展示会場には、確かに「“失”楽園」があった。
私は楽太郎氏の写真を眺めるとき、まるで自分自身の古い日記を読み返した時のような郷愁にかられるのだ。私がかつて持っていて、今は無くしてしまった何かを感じるのだ。それは何もあの失ってしまった楽園の写真にとどまらない、彼の撮影するライブの写真であっても静物の写真であっても、そこには私がかつて持っていて、今は失ってしまった何かが宿っているように思われる。
彼に出会ったのは、いつのことだったかもう忘れてしまったが、年上のようにも年下のようにも感じられる不思議な男であった。
彼はどんな場所にでも当たり前に居て、彼の持つ擦れてボロボロになったCanon5Dのレンズを通して、彼を取り巻く人々を記憶していくのだ。
彼はいつまでも彼自身の情熱と、そして彼がモデルとする被写体に内在する情熱を、関係者として、被写体との親密な友人として、そばに立ちながら記憶していくことだろう。
それは彼が、美術大学という場で多くの友人の作品や制作を記録する、というところから歩み始めた写真作家であることにも起因しているようにも思う。
私は、彼の生きる限り、誰かの情熱に溢れた生の記憶を彼の写真を通して感じ続けるのだ。
私は今回の展示で改めて彼の写真について考えた。
私は自分の周りの環境を記録することで、ここまで自分自身をさらけ出している写真作家を見たことがない。
そして、彼の写真を見ることは、誰かの人生を、そばに立つ友人として眺めることと同じことのように思えてきた。
それは、荻原楽太郎その人にしかできないことであり、彼自身の人間性に由来するものであるように感じるのだ。
彼の写真は彼の持つカメラのファインダーによって区切られ、光学的に現像された、切り取られた空間というだけのものではなく、荻原楽太郎という人間とその被写体との関係性までを想起させ、またその集団やコミュニティの関係性を追体験するようなものとなっている。
カメラを持っている荻原楽太郎は一切写真に写らないが、彼の写真から強烈に匂い立つイメージは、荻原楽太郎という男の人生の記憶なのだ。
だから彼の写真が好きだ、という人たちは、きっと荻原楽太郎の写真だけではなく、荻原楽太郎という人間の人生が好きなのだろうと、そのように感じた次第である。
そして、私たちが彼と共に同時代を生きる限り、彼の記憶した楽園の風景は、また、やがて失楽園と呼ばれることだろう。
荻原楽太郎tumblr
レポート:
パフォーマー、研究者、無職
johnsmith
2016年5月13日金曜日
「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!オラと宇宙のプリンセス」について
この映画はなんというか、本当に、いろいろなことがうまくいってない映画だと思う。
他の人はどう思っているのだろうと思い、ネットでレビューやら考察を掲載しているwebサイトを覗いてみると、出るわ出るわ、低評価のオンパレードである。
ただ、ちょくちょく見かける感想として、宇宙人のキャラクターが不快である、というものがあるが、この点に関しては、そのように作ってあるのだから、それはそうだろう、と思うし、そこを低評価の基準にするのは過ちであるのではないか、と思う次第である。
この映画に出てくる宇宙人たちは、地球人とは違う環境で育ち、違う価値観の元に生きてきた、地球人とは違う常識を持った人たちとして描かれている。
この点はこの映画をむしろ評価する点であると思う。
社会的な停滞感や、閉塞感、その状況の原因となる問題を「ヒママターの不足」という分かりやすいものとして設定し、違う価値観を持つ宇宙人と地球人が同様の問題意識を共有している、という出発点がある。ただ、その問題を解決するための方法が、価値観の違いゆえに異なる、という非常に難しいテーマを描こうとしているのではないか。
ぶっちゃけ全然子供向けなテーマではない。この映画には明確に悪意を持った敵が存在しないし、仮に宇宙人側の代表、サンデーゴロネスキーを完膚なきまでにやっつけたとしても、物語に設定された問題は解決しないのである。
この映画の鑑賞後の清涼感のなさは結局のところ、設定された問題に完璧な回答というものが存在しえないし、絶対的に正しいと言える選択も存在しないことに起因しているように思う。二つの価値観のすれ違いというテーマは、結局のところ無理やり一つの解法にたどり着かせようとすると、一方の力による屈服か、ご都合主義に流されがちなのだ。
こういうテーマをしっかり描いた作品として、例えば漫画版ナウシカがある。序盤ナウシカとクシャナはお互いの正義のためにすれ違い、終盤では古代文明の意思とも言える墓所の主の主張する論理的正しさと、ナウシカの主張する直感的正しさのぶつかり合いとなる。『風の谷のナウシカ』は異なる価値観を持つ人々と融和してきたナウシカが、最後に絶対に相容れない異なる価値観の正義を打ち倒す葛藤を描いているとも言えるだろう。こういう作品の場合、読者、視聴者の感情移入する側の主張は、だいたい「私たち人間の可能性に賭けましょう」という話になりがちである。『ドラえもん のび太と雲の王国』もそうだったし、本作『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!オラと宇宙のプリンセス』の野原一家の主張もそうである。
そして何より本作のやばいところは、子供向けアニメの設定する問題提起としては難易度の高すぎる「子供は親に育てられることが最も幸せであるか?」という家族のあり方そのものの根幹に対する問いを設定してしまっていることである。
クレヨンしんちゃんの映画はだいたい毎回興行収入10億前後の大人気映画である。そしてこの映画を観る層には、かなりの数の子供と親子連れがいるはずである。
家族のあり方や、社会の構造、親と子供の関係性が多様化している現代社会に対して、この問いかけは正直言ってナンセンスすぎるのだ。
一つの解答を示すことは、裏返せばその形ではない家庭を暗に批判することにもなりかねないし、幾つかのクレしん映画を見てきた人ならば感じるのではないかと思うが、クレヨンしんちゃんという作品における「家族」とはイコール「野原一家」のことなのである。だいたいどの作品でも、カスカベ防衛隊を助けに来るのはしんのすけの家族であるひろし、みさえ、ひまわりであり他の子供達の家族は往々にしてモブのような扱いとなってしまっていることが多い。だからこそ、クレヨンしんちゃんは、これがあるべき家族の形である、という主張の強い作品を避けてきたのではないか、と思う。そもそも映画の中ですら子供に対する行動力や情熱、という点で野原一家とカスカベ防衛隊のみんなの親に大きな格差が生じてしまっているのだ。(無論ストーリー上何人も親を活躍させることが、分かりやすさや尺の都合で不可能であるという考えがあるのだろうが)
子供から見たクレしんは、しんちゃんに感情移入して見るものであるので、自分の親であるひろしとみさえ、妹であるひまわりが一番活躍するというのはよく分かる。子供の目線で考えれば、友達の親、というものは正直あまり視界に入らないものであるので、この描き方も納得のいくものがある。大人の目から見たクレしんは、ひろしやみさえを通して、俺、私にもこういうところあるよね、というような部分部分の感情移入を促しているように思える。家族、というテーマを扱っているからこそ、今までのクレしんの映画は、家族というものそのものを根源的に問うテーマを避けてきたのではないかと思う。
ある意味で本作は、今までのクレしんとは大きく異なる路線を目指した冒険作であるとも言える。本来だったら敵に当たるキャラクターたちは明確に敵意を持っているわけではなく、問われるのは家族としての野原一家のあり方である。(これは同じ監督が監督する前作『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ黄金のスパイ大作戦』でも似たようなスタンスを取っていることから、この監督が人気作であるクレヨンしんちゃんの映画を作る上で示すべきと考えた一つの方向性なのかもしれない。)国民的アニメ、という言葉があるが、その国民の生活が時代の移り変わりによって変化していく中で「お前たちは国民的アニメのキャラクターとして本当にそのままでいいのか?」と問うているようにも感じられる。そして、やはりテーマに対して明確な解答を示さない。野原一家はその問題提起を解決することもなく、また、向こうの意見に対し反論する意見を示すでもなく、各人の気合いとがむしゃらさと、なんとなく序盤に出てきた伏線とも言えないような予言と整合性をつける、というご都合主義で幕を引く。異なる価値観をすり合わせるのはある意味で大人の仕事であると言えるだろう。ひろしとみさえは結局、既存の自分たちの持ってる価値観を曲げることもなく、まあなんとなく今まで通りに戻れるしよしにするか、という感じで春日部に帰っていく。彼らは結局のところ、相手の正しさをがむしゃらさというパワーで自分たちの正しさのもとにねじ伏せただけである。
ある意味でこの作品は群像劇なのだ。目指すべき目的のために一致団結して問題を解決するのではない。各人がいろいろがむしゃらにやってたら、なんとなく問題が解決してしまった。という腑に落ちなさがこの作品の弱点とも言えるだろう。しかし、アニメの世界や子供の世界は努力、友情、勝利、みたいなシンプルな方程式が成り立つのかもしれないけど、大人の社会から見えている世界って実際にこんなもんなんじゃないか、とも思う。
やたらと大人と子供、という話をしているが、この作品は子供がいつか大人になる、ということを明示的に示した作品でもある、この路線を示したクレしん映画といえば「未来の花嫁」もあるが、あれは具体的に大人のしんのすけをしんのすけとは別のキャラクターとして登場させてしまっているので、少し方向性が違うだろう。この作品の該当部分は、まさに映画の最後で、ゴロネスキーがしんのすけに、大人になった時にお詫びに贈り物をしようという提案をし、しんのすけが「え〜そんな先?」と言うシーンである。この時のゴロネスキーの返答はこうだ。「そうかな?意外とすぐだぞ?」。
僕はこの描写に、親世代が理解できず許容できなかった価値観のすれ違いに、いずれ大人になったしんのすけが向き合うことになる、という暗示が込められているように思う。
その時にしんのすけは一体どんな答えを出すのだろうか。
というわけで、この作品はとても示唆的で、実験的で、今までのクレしん映画にとらわれない凄い作品であると、私は思っている。
ただ、やっぱり、なんというか、一言で言ってしまうと、つまらないのである。
それはこの作品だけで話が結局解決していない、という物語的な欠陥のせいでもあるし、問題提起に対してとりあえずでも回答を示すわけでもなく、野原一家も今回の騒動で、変わったり成長した点がたいしてないからということにも起因するのだろうが…
そして何より端的この作品は、映画を娯楽としてなんとなく楽しめない作品であるということが大きいのだろう。小難しいことを言いつつも、やはり私も映画に享楽的な、享受しやすい快楽を求めてしまっているのだなぁ、と思ってしまう次第である。
他の人はどう思っているのだろうと思い、ネットでレビューやら考察を掲載しているwebサイトを覗いてみると、出るわ出るわ、低評価のオンパレードである。
ただ、ちょくちょく見かける感想として、宇宙人のキャラクターが不快である、というものがあるが、この点に関しては、そのように作ってあるのだから、それはそうだろう、と思うし、そこを低評価の基準にするのは過ちであるのではないか、と思う次第である。
この映画に出てくる宇宙人たちは、地球人とは違う環境で育ち、違う価値観の元に生きてきた、地球人とは違う常識を持った人たちとして描かれている。
この点はこの映画をむしろ評価する点であると思う。
社会的な停滞感や、閉塞感、その状況の原因となる問題を「ヒママターの不足」という分かりやすいものとして設定し、違う価値観を持つ宇宙人と地球人が同様の問題意識を共有している、という出発点がある。ただ、その問題を解決するための方法が、価値観の違いゆえに異なる、という非常に難しいテーマを描こうとしているのではないか。
ぶっちゃけ全然子供向けなテーマではない。この映画には明確に悪意を持った敵が存在しないし、仮に宇宙人側の代表、サンデーゴロネスキーを完膚なきまでにやっつけたとしても、物語に設定された問題は解決しないのである。
この映画の鑑賞後の清涼感のなさは結局のところ、設定された問題に完璧な回答というものが存在しえないし、絶対的に正しいと言える選択も存在しないことに起因しているように思う。二つの価値観のすれ違いというテーマは、結局のところ無理やり一つの解法にたどり着かせようとすると、一方の力による屈服か、ご都合主義に流されがちなのだ。
こういうテーマをしっかり描いた作品として、例えば漫画版ナウシカがある。序盤ナウシカとクシャナはお互いの正義のためにすれ違い、終盤では古代文明の意思とも言える墓所の主の主張する論理的正しさと、ナウシカの主張する直感的正しさのぶつかり合いとなる。『風の谷のナウシカ』は異なる価値観を持つ人々と融和してきたナウシカが、最後に絶対に相容れない異なる価値観の正義を打ち倒す葛藤を描いているとも言えるだろう。こういう作品の場合、読者、視聴者の感情移入する側の主張は、だいたい「私たち人間の可能性に賭けましょう」という話になりがちである。『ドラえもん のび太と雲の王国』もそうだったし、本作『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!オラと宇宙のプリンセス』の野原一家の主張もそうである。
そして何より本作のやばいところは、子供向けアニメの設定する問題提起としては難易度の高すぎる「子供は親に育てられることが最も幸せであるか?」という家族のあり方そのものの根幹に対する問いを設定してしまっていることである。
クレヨンしんちゃんの映画はだいたい毎回興行収入10億前後の大人気映画である。そしてこの映画を観る層には、かなりの数の子供と親子連れがいるはずである。
家族のあり方や、社会の構造、親と子供の関係性が多様化している現代社会に対して、この問いかけは正直言ってナンセンスすぎるのだ。
一つの解答を示すことは、裏返せばその形ではない家庭を暗に批判することにもなりかねないし、幾つかのクレしん映画を見てきた人ならば感じるのではないかと思うが、クレヨンしんちゃんという作品における「家族」とはイコール「野原一家」のことなのである。だいたいどの作品でも、カスカベ防衛隊を助けに来るのはしんのすけの家族であるひろし、みさえ、ひまわりであり他の子供達の家族は往々にしてモブのような扱いとなってしまっていることが多い。だからこそ、クレヨンしんちゃんは、これがあるべき家族の形である、という主張の強い作品を避けてきたのではないか、と思う。そもそも映画の中ですら子供に対する行動力や情熱、という点で野原一家とカスカベ防衛隊のみんなの親に大きな格差が生じてしまっているのだ。(無論ストーリー上何人も親を活躍させることが、分かりやすさや尺の都合で不可能であるという考えがあるのだろうが)
子供から見たクレしんは、しんちゃんに感情移入して見るものであるので、自分の親であるひろしとみさえ、妹であるひまわりが一番活躍するというのはよく分かる。子供の目線で考えれば、友達の親、というものは正直あまり視界に入らないものであるので、この描き方も納得のいくものがある。大人の目から見たクレしんは、ひろしやみさえを通して、俺、私にもこういうところあるよね、というような部分部分の感情移入を促しているように思える。家族、というテーマを扱っているからこそ、今までのクレしんの映画は、家族というものそのものを根源的に問うテーマを避けてきたのではないかと思う。
ある意味で本作は、今までのクレしんとは大きく異なる路線を目指した冒険作であるとも言える。本来だったら敵に当たるキャラクターたちは明確に敵意を持っているわけではなく、問われるのは家族としての野原一家のあり方である。(これは同じ監督が監督する前作『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ黄金のスパイ大作戦』でも似たようなスタンスを取っていることから、この監督が人気作であるクレヨンしんちゃんの映画を作る上で示すべきと考えた一つの方向性なのかもしれない。)国民的アニメ、という言葉があるが、その国民の生活が時代の移り変わりによって変化していく中で「お前たちは国民的アニメのキャラクターとして本当にそのままでいいのか?」と問うているようにも感じられる。そして、やはりテーマに対して明確な解答を示さない。野原一家はその問題提起を解決することもなく、また、向こうの意見に対し反論する意見を示すでもなく、各人の気合いとがむしゃらさと、なんとなく序盤に出てきた伏線とも言えないような予言と整合性をつける、というご都合主義で幕を引く。異なる価値観をすり合わせるのはある意味で大人の仕事であると言えるだろう。ひろしとみさえは結局、既存の自分たちの持ってる価値観を曲げることもなく、まあなんとなく今まで通りに戻れるしよしにするか、という感じで春日部に帰っていく。彼らは結局のところ、相手の正しさをがむしゃらさというパワーで自分たちの正しさのもとにねじ伏せただけである。
ある意味でこの作品は群像劇なのだ。目指すべき目的のために一致団結して問題を解決するのではない。各人がいろいろがむしゃらにやってたら、なんとなく問題が解決してしまった。という腑に落ちなさがこの作品の弱点とも言えるだろう。しかし、アニメの世界や子供の世界は努力、友情、勝利、みたいなシンプルな方程式が成り立つのかもしれないけど、大人の社会から見えている世界って実際にこんなもんなんじゃないか、とも思う。
やたらと大人と子供、という話をしているが、この作品は子供がいつか大人になる、ということを明示的に示した作品でもある、この路線を示したクレしん映画といえば「未来の花嫁」もあるが、あれは具体的に大人のしんのすけをしんのすけとは別のキャラクターとして登場させてしまっているので、少し方向性が違うだろう。この作品の該当部分は、まさに映画の最後で、ゴロネスキーがしんのすけに、大人になった時にお詫びに贈り物をしようという提案をし、しんのすけが「え〜そんな先?」と言うシーンである。この時のゴロネスキーの返答はこうだ。「そうかな?意外とすぐだぞ?」。
僕はこの描写に、親世代が理解できず許容できなかった価値観のすれ違いに、いずれ大人になったしんのすけが向き合うことになる、という暗示が込められているように思う。
その時にしんのすけは一体どんな答えを出すのだろうか。
というわけで、この作品はとても示唆的で、実験的で、今までのクレしん映画にとらわれない凄い作品であると、私は思っている。
ただ、やっぱり、なんというか、一言で言ってしまうと、つまらないのである。
それはこの作品だけで話が結局解決していない、という物語的な欠陥のせいでもあるし、問題提起に対してとりあえずでも回答を示すわけでもなく、野原一家も今回の騒動で、変わったり成長した点がたいしてないからということにも起因するのだろうが…
そして何より端的この作品は、映画を娯楽としてなんとなく楽しめない作品であるということが大きいのだろう。小難しいことを言いつつも、やはり私も映画に享楽的な、享受しやすい快楽を求めてしまっているのだなぁ、と思ってしまう次第である。
2015年5月28日木曜日
作品のアーカイヴと鑑賞における共時性
作品をアーカイヴする。これは芸術の範疇などでは大きな議論のある言葉である。
エンターテイメントのジャンルで言えばアニメーショ ン作品なら、DVD、BD化されて、参照可能になること自体は一種のアーカイヴ化の完成と言えるだろう。本で言えば全集、総集編なども一種のアーカイヴで あるし、単行本という形式も、週刊、或は月刊連載された断片のアーカイヴ化であると言えるだろう。
何かをアーカイヴするときに問題となるのはアーカイヴにどの範囲まで含めるのか、そして、どのような手段でアーカイヴ化するのか、ということである。一次 情報がそもそも記憶可能な形態として発信されるものであれば、その一次情報そのものを保存しておけば良い。しかし、芸術作品で言えば、場所と時間、共時性 に支えられたパフォーマンスアートを映像記録したとして、それはその作品そのもののアーカイヴと言えるのか、という問題がある。
どこまでを作品と捉えるか。具体的な例で言えば、ジョン・ケージの「4分33秒」は、無音の4分33秒そのものが作品なのか、楽譜を含めるのか、あるいは、ステージ上で上演された空間そのものを作品と捉えるのか。
「4分33秒」は一般に、聴衆のざわめきも含めての音楽作品とされている。
となれば、客席と観客のざわめきを含めて作品とするのか、或は映像での上演を前提として、映像の聴衆のざわめきを再現する空間そのものを想定し、舞台上だけのアーカイヴのためのアーカイヴを作るべきなのか。
また、永久に再現可能であるか、という問題においては、コンピュータ技術などを用いたメディアアートで言えば、当時のコンピュータ技術に立脚された作品 が、現代の新しいOS上では機能しないなどの問題も発生している。この問題は絵画作品が経年変化でくすんでいく、と言った問題や、彫刻作品、より古い時代 で言えばスフィンクスの雨による浸食、風化などに見られるように、古来から作品を保存することの問題として現在でも目に見える形で存在している。
絵画であれば絵画修復は専門の職業として確立されているし、一部の芸術大学ではそれを専門とした学部も存在する。
より難しいのは、記憶媒体の出現する前の音楽である、なぜならばその時代の音楽は、指示書として存在する譜面のみが現在に残っており、音としての当時の記 録が存在しないからである。指示書の指示に、例えば時代的な共通認識として欠落している部分があったとしたら、それは後年、本来の形とは異なる形で再生さ れることとなる。
例えばローレンスピッケンという音楽学者の研究では、日本の雅楽は従来、もっとテンポの速いものだった、という分析を行っている。1000年以上の間伝承されていくうちに徐々に異なるものとなっていった可能性を示唆しているのである。
現在では、映像記録、録音などの様々な記録手法が発達してきた結果、限りなくその時代のリアリティを切り取ったアーカイヴが可能になっているとも言えるが、音楽家の三輪眞弘の主張する“録楽”という考え方に基づけば、“人間によって演奏され、その場で聴かれる音楽”と“人間の手を介さず、複製技術によって聴かれる音楽”は別物であり、記憶媒体はその音楽のアーカイヴではあれど、音楽作品そのものではあり得ない、ということとなる。では、録楽は音楽の完全なアーカイヴと言えるだろうか?
(参考:http://tower.jp/article/series/2011/10/13/Masahiro_Miwa)
作品を連綿と続く人間の文化の通時性のベクトルの上に横たわる共時性の産物として、その作品を鑑賞した時代の人々の感覚や、当時の社会的雰囲気までを作品 として捉えようとした場合、そのアーカイヴは非常に膨大な情報となるだろう。あるいは、そのようなアーカイヴなど不可能であるのかもしれない。
先日Twitterでリツイートされてきたツイートにこのようなものがあった。
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まったく同じ文脈で先日、大学生の漫画好き男子に「大友克洋の何が凄いのか全然わからない、『AKIRA』も『童夢』も他の漫画によくあるシーンばかり じゃないですか」と言われて立ちくらみがした。本当に世界を変えてしまった才能は、その後の世代からは空気のように透明な存在になってしまうのだ。
https://twitter.com/C4Dbeginner/status/595949410590261250
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「AKIRA」「童夢」はある意味でそのジャンルの開拓者であったからこそ価値が担保されている部分が在る。新規性の評価はその時代が過ぎてしまえば理解されないものとなるし、当時感じることの出来た感動は時代が変わってしまえば理解できないものとなる。
たとえばアンディウォーホルの実験的な映像作品群は現在ではAfter Effectsの効果を使えば再現可能であるものが幾つか在るが、それが容易に再現可能であるからと言って、その作品に置ける新規性が損なわれるわけではない。
SF作家、テッド・チャンの短編集「あなたの人生の物語」の中に「顔の美醜について」という一遍がある。この物語では、脳科学の発展の末、意図的に脳に機能障害を起こさせる“美醜失認処置(カリーアグノシア)”という処置が安全に行えるようになっている。様々な人々が、人間の従来的な評価基準は、外見でなく内面であるべきである、という信仰の元、外見による評価基準を意図的に欠落させる、という未来の社会を描いた作品である。
本作品の中では、過剰に発展した脳科学が、人間の認識操作することと、過剰に発展した広告手法によって、脳科学によって操作されていない人々が煽動されてしまう、という二重構造を一種皮肉を交えて描いている。
(参考:あなたの 人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)
)
また映画マトリックスではデータとしてアーカイヴされた格闘技の情報を、脊髄に接続された端子から書き込むことで、経験すること無く習得する、と言った場面が描かれているし、攻殻機動隊では電脳に直接銃の制御ソフトを書き込んで銃を使用すると言ったシーンも存在する。
(マトリッ クス スペシャル・バリューパック (3枚組)(初回限定生産) [Blu-ray]
)
(攻殻機動 隊 (2) KCデラックス
)
この、安全なブレインストーミングが可能となった 時、鑑賞者は作品を鑑賞する前にブレインストーミングを受け、作品発表当時の時代の記憶を埋め込まれた上で作品を鑑賞する、といったことが可能となり、 我々はフレッシュなナムジュンパイクを体験することが出来るようになるだろうか?
エンターテイメントのジャンルで言えばアニメーショ ン作品なら、DVD、BD化されて、参照可能になること自体は一種のアーカイヴ化の完成と言えるだろう。本で言えば全集、総集編なども一種のアーカイヴで あるし、単行本という形式も、週刊、或は月刊連載された断片のアーカイヴ化であると言えるだろう。
何かをアーカイヴするときに問題となるのはアーカイヴにどの範囲まで含めるのか、そして、どのような手段でアーカイヴ化するのか、ということである。一次 情報がそもそも記憶可能な形態として発信されるものであれば、その一次情報そのものを保存しておけば良い。しかし、芸術作品で言えば、場所と時間、共時性 に支えられたパフォーマンスアートを映像記録したとして、それはその作品そのもののアーカイヴと言えるのか、という問題がある。
どこまでを作品と捉えるか。具体的な例で言えば、ジョン・ケージの「4分33秒」は、無音の4分33秒そのものが作品なのか、楽譜を含めるのか、あるいは、ステージ上で上演された空間そのものを作品と捉えるのか。
「4分33秒」は一般に、聴衆のざわめきも含めての音楽作品とされている。
となれば、客席と観客のざわめきを含めて作品とするのか、或は映像での上演を前提として、映像の聴衆のざわめきを再現する空間そのものを想定し、舞台上だけのアーカイヴのためのアーカイヴを作るべきなのか。
また、永久に再現可能であるか、という問題においては、コンピュータ技術などを用いたメディアアートで言えば、当時のコンピュータ技術に立脚された作品 が、現代の新しいOS上では機能しないなどの問題も発生している。この問題は絵画作品が経年変化でくすんでいく、と言った問題や、彫刻作品、より古い時代 で言えばスフィンクスの雨による浸食、風化などに見られるように、古来から作品を保存することの問題として現在でも目に見える形で存在している。
絵画であれば絵画修復は専門の職業として確立されているし、一部の芸術大学ではそれを専門とした学部も存在する。
より難しいのは、記憶媒体の出現する前の音楽である、なぜならばその時代の音楽は、指示書として存在する譜面のみが現在に残っており、音としての当時の記 録が存在しないからである。指示書の指示に、例えば時代的な共通認識として欠落している部分があったとしたら、それは後年、本来の形とは異なる形で再生さ れることとなる。
例えばローレンスピッケンという音楽学者の研究では、日本の雅楽は従来、もっとテンポの速いものだった、という分析を行っている。1000年以上の間伝承されていくうちに徐々に異なるものとなっていった可能性を示唆しているのである。
現在では、映像記録、録音などの様々な記録手法が発達してきた結果、限りなくその時代のリアリティを切り取ったアーカイヴが可能になっているとも言えるが、音楽家の三輪眞弘の主張する“録楽”という考え方に基づけば、“人間によって演奏され、その場で聴かれる音楽”と“人間の手を介さず、複製技術によって聴かれる音楽”は別物であり、記憶媒体はその音楽のアーカイヴではあれど、音楽作品そのものではあり得ない、ということとなる。では、録楽は音楽の完全なアーカイヴと言えるだろうか?
(参考:http://tower.jp/article/series/2011/10/13/Masahiro_Miwa)
作品を連綿と続く人間の文化の通時性のベクトルの上に横たわる共時性の産物として、その作品を鑑賞した時代の人々の感覚や、当時の社会的雰囲気までを作品 として捉えようとした場合、そのアーカイヴは非常に膨大な情報となるだろう。あるいは、そのようなアーカイヴなど不可能であるのかもしれない。
先日Twitterでリツイートされてきたツイートにこのようなものがあった。
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まったく同じ文脈で先日、大学生の漫画好き男子に「大友克洋の何が凄いのか全然わからない、『AKIRA』も『童夢』も他の漫画によくあるシーンばかり じゃないですか」と言われて立ちくらみがした。本当に世界を変えてしまった才能は、その後の世代からは空気のように透明な存在になってしまうのだ。
https://twitter.com/C4Dbeginner/status/595949410590261250
__________________________________________
「AKIRA」「童夢」はある意味でそのジャンルの開拓者であったからこそ価値が担保されている部分が在る。新規性の評価はその時代が過ぎてしまえば理解されないものとなるし、当時感じることの出来た感動は時代が変わってしまえば理解できないものとなる。
たとえばアンディウォーホルの実験的な映像作品群は現在ではAfter Effectsの効果を使えば再現可能であるものが幾つか在るが、それが容易に再現可能であるからと言って、その作品に置ける新規性が損なわれるわけではない。
SF作家、テッド・チャンの短編集「あなたの人生の物語」の中に「顔の美醜について」という一遍がある。この物語では、脳科学の発展の末、意図的に脳に機能障害を起こさせる“美醜失認処置(カリーアグノシア)”という処置が安全に行えるようになっている。様々な人々が、人間の従来的な評価基準は、外見でなく内面であるべきである、という信仰の元、外見による評価基準を意図的に欠落させる、という未来の社会を描いた作品である。
本作品の中では、過剰に発展した脳科学が、人間の認識操作することと、過剰に発展した広告手法によって、脳科学によって操作されていない人々が煽動されてしまう、という二重構造を一種皮肉を交えて描いている。
(参考:あなたの 人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)
また映画マトリックスではデータとしてアーカイヴされた格闘技の情報を、脊髄に接続された端子から書き込むことで、経験すること無く習得する、と言った場面が描かれているし、攻殻機動隊では電脳に直接銃の制御ソフトを書き込んで銃を使用すると言ったシーンも存在する。
(マトリッ クス スペシャル・バリューパック (3枚組)(初回限定生産) [Blu-ray]
)
(攻殻機動 隊 (2) KCデラックス
この、安全なブレインストーミングが可能となった 時、鑑賞者は作品を鑑賞する前にブレインストーミングを受け、作品発表当時の時代の記憶を埋め込まれた上で作品を鑑賞する、といったことが可能となり、 我々はフレッシュなナムジュンパイクを体験することが出来るようになるだろうか?
2015年5月9日土曜日
メトロポリス考
「ケンイチ…私は誰?」
もはや涙枯れ果て涙線からはここ数年涙などというものは顔を出さぬ私であるが、アニメ、メトロポリスのラストシーンのこの台詞を聞くと少し目が潤む。
メトロポリスという作品は手塚治虫の原作だけでなく黒田硫黄が漫画化してたりとなにかと原作者以外の他者の視点の介入のある作品である。
原作にミッキーマウスが出てくることは余録であるが、昔先輩が、改めて原作を読み直すと、ケンイチくんがなんだかんだでひどい奴という話をしていたことを思い出す。同じような指摘を黒田硫黄も行っているが、ケンイチくんは言うまでもなく結構俗物的で、機械故の純真さをもつミッチイなどと並べると結構ひどい奴なのである。まあそれでも、あくまでどこにでもいる普通の人、というレベルでひどい奴、というくらいであるが。
同じ漫画という土俵で制作された黒田硫黄のメトロポリスは私の好きな漫画の一つである。原作でのミッチイは神聖な両性具有、或は純真で高潔な少年性のようなものを前面に押し出されたデザイン、つまりアトム型の少年ロボットなのであるが、黒田硫黄の描くミッチイはスれた青年、つまり男としての側面を強くデザインされている。ミッチイのことを忘れているケンイチくん、原付で事故るわさっき出会った男と寝るわとせわしない女、主体性のないレッド公、と基本的にキャラクター達は場面場面をしっちゃかめっちゃかにかき回す。割とまじめに配役に殉じているランプやハムエッグがかわいそうなくらいである。取り繕ったように人口密度増加、ビルの乱立、野球は観戦するものであってするものではないといった価値観が当たり前となっているほどに遊び場のない町といった社会批判のようなものも垣間見えるが、それぞれのメッセージ性がごった煮になっていて、もはや何が言いたかったのかよくわからない。人間達よりもロボットであるミッチイの方が古典的な人間らしい生活に理解を示すなど、汚れた人と純真な機械というアトムに近い構造で語られるものの、目的を達成したミッチイが野球をやってる最中にケンイチくんがバットで打ったボールに直撃して死んだり、改めて考えてみると、本当に、一本筋が通って話が終わる、ということはない、オモテニウムの影響で太陽の黒点増え続けるし、万年浪人生のケンイチくんの自己の葛藤が解決される訳でもない。しかしこの漫画では、まごうこと無く、自分という生き物をまっとうしているキャラクター達が好き勝手に動き回る。それで綺麗に大団円にまとまる訳もないし、当たり前に当たり前な話である。ケンイチくんは自分自身が何であるのか、という答えを、結局女で満たそうとするし、問いを超越していたミッチイに対して強いコンプレックスを抱き続けていた。レッド公も全ての指示を超人であるミッチィにゆだねようとしていたが、この辺りは原作のミッチィの純潔な高貴さに惹かれた人々という構図と、目的のためなら手段を選ばないというある種純粋で超越的なミッチイに惹かれた人々、という形で非常に似ている。
合目的的であるために、ミッチイはどちらの作品でも最終的に「私は誰?」という問いをもたない。いや、表面的にはもたないかのように見えるのである。原作のミッチイは特に「私は誰?」と言う問いを自身のアイデンティティとしての内面の問題ではなく、人間であるのか、ロボットであるのか、という単純な帰属の問題として捉えているように思う。
映画メトロポリスの方に話を戻そう。
ミッチイに当たるキャラクターは少女型ロボットのティマであるが前述の通りこの作品ではミッチイは少女なのである。アバターが明確に少女になった、ということで映画メトロポリスは非常にBoy meet Girl色が強くなっている。黒田硫黄はメトロポリスの帰着点を野球と女に集約させたが、この映画では、男と女、人間とロボットという構図がかなり強く現れている。男と女というものがわかりあうことが出来るのか、ティマは自分が、そしてケンイチはティマが誰であるのかと言う問いに如何に答えるか。という構造となっている。自らを襲ったティマを救おうとしたケンイチは独りよがりで惰性的ながらも回答を示したと言えるが、その回答は果たしてティマにとっての正解であったのか、最後に「私」を確立させた「ケンイチ」の名を呼んで、「私は誰?」の言葉とともにケンイチの手を握り返さずにティマは落ちてゆく。
「僕はケンイチ、君は一体誰なんだ?」
「キミハイッタイダレナンダ? 」
「ちがうよ、いいかい、君は自分のことは私、って言うんだよ」
「ケンイチ」
もはや涙枯れ果て涙線からはここ数年涙などというものは顔を出さぬ私であるが、アニメ、メトロポリスのラストシーンのこの台詞を聞くと少し目が潤む。
メトロポリスという作品は手塚治虫の原作だけでなく黒田硫黄が漫画化してたりとなにかと原作者以外の他者の視点の介入のある作品である。
原作にミッキーマウスが出てくることは余録であるが、昔先輩が、改めて原作を読み直すと、ケンイチくんがなんだかんだでひどい奴という話をしていたことを思い出す。同じような指摘を黒田硫黄も行っているが、ケンイチくんは言うまでもなく結構俗物的で、機械故の純真さをもつミッチイなどと並べると結構ひどい奴なのである。まあそれでも、あくまでどこにでもいる普通の人、というレベルでひどい奴、というくらいであるが。
同じ漫画という土俵で制作された黒田硫黄のメトロポリスは私の好きな漫画の一つである。原作でのミッチイは神聖な両性具有、或は純真で高潔な少年性のようなものを前面に押し出されたデザイン、つまりアトム型の少年ロボットなのであるが、黒田硫黄の描くミッチイはスれた青年、つまり男としての側面を強くデザインされている。ミッチイのことを忘れているケンイチくん、原付で事故るわさっき出会った男と寝るわとせわしない女、主体性のないレッド公、と基本的にキャラクター達は場面場面をしっちゃかめっちゃかにかき回す。割とまじめに配役に殉じているランプやハムエッグがかわいそうなくらいである。取り繕ったように人口密度増加、ビルの乱立、野球は観戦するものであってするものではないといった価値観が当たり前となっているほどに遊び場のない町といった社会批判のようなものも垣間見えるが、それぞれのメッセージ性がごった煮になっていて、もはや何が言いたかったのかよくわからない。人間達よりもロボットであるミッチイの方が古典的な人間らしい生活に理解を示すなど、汚れた人と純真な機械というアトムに近い構造で語られるものの、目的を達成したミッチイが野球をやってる最中にケンイチくんがバットで打ったボールに直撃して死んだり、改めて考えてみると、本当に、一本筋が通って話が終わる、ということはない、オモテニウムの影響で太陽の黒点増え続けるし、万年浪人生のケンイチくんの自己の葛藤が解決される訳でもない。しかしこの漫画では、まごうこと無く、自分という生き物をまっとうしているキャラクター達が好き勝手に動き回る。それで綺麗に大団円にまとまる訳もないし、当たり前に当たり前な話である。ケンイチくんは自分自身が何であるのか、という答えを、結局女で満たそうとするし、問いを超越していたミッチイに対して強いコンプレックスを抱き続けていた。レッド公も全ての指示を超人であるミッチィにゆだねようとしていたが、この辺りは原作のミッチィの純潔な高貴さに惹かれた人々という構図と、目的のためなら手段を選ばないというある種純粋で超越的なミッチイに惹かれた人々、という形で非常に似ている。
合目的的であるために、ミッチイはどちらの作品でも最終的に「私は誰?」という問いをもたない。いや、表面的にはもたないかのように見えるのである。原作のミッチイは特に「私は誰?」と言う問いを自身のアイデンティティとしての内面の問題ではなく、人間であるのか、ロボットであるのか、という単純な帰属の問題として捉えているように思う。
映画メトロポリスの方に話を戻そう。
ミッチイに当たるキャラクターは少女型ロボットのティマであるが前述の通りこの作品ではミッチイは少女なのである。アバターが明確に少女になった、ということで映画メトロポリスは非常にBoy meet Girl色が強くなっている。黒田硫黄はメトロポリスの帰着点を野球と女に集約させたが、この映画では、男と女、人間とロボットという構図がかなり強く現れている。男と女というものがわかりあうことが出来るのか、ティマは自分が、そしてケンイチはティマが誰であるのかと言う問いに如何に答えるか。という構造となっている。自らを襲ったティマを救おうとしたケンイチは独りよがりで惰性的ながらも回答を示したと言えるが、その回答は果たしてティマにとっての正解であったのか、最後に「私」を確立させた「ケンイチ」の名を呼んで、「私は誰?」の言葉とともにケンイチの手を握り返さずにティマは落ちてゆく。
「僕はケンイチ、君は一体誰なんだ?」
「キミハイッタイダレナンダ? 」
「ちがうよ、いいかい、君は自分のことは私、って言うんだよ」
「ケンイチ」
「私は誰?」
2015年2月2日月曜日
メモ
知覚のあわい —知ることと感じること
「私たちは動くために知覚しなければならないが、知覚するためには動かなければならない」
—ジェームズギブソン
0.はじめに
知ることと感じることの関係性について
さわりに、渡邊恵太の「カーソルによる手触り感提示システム」[渡邊 2003]に触れる。
VisualHaptics: カーソルによる手触り感提示システム
http://www.persistent.org/visualhaptics.html
今回のゼミでは芸術作品における知覚と感覚について考えてみようと思う。古典から近年の若手作家までの作品の紹介とともに、今回はテーマを視覚に絞り、それらについて論じる。
1.感じること
身体感覚を用いた作品群
「Open Field」-「バーチャルボーイ」-「見ることは信じること」
影の存在しない空間で無限遠を体感させるジェームズタレルの「Open Field」 [2000]、Ledとミラーによる構造で人間の視覚に立体感を与える任天堂の3Dゲーム機「バーチャルボーイ」[1995]、そして 裸眼では認識できない赤外線LEDを赤外線スコープで覗いたときに、文章として他人の生活を覗き見ることが出来る“見えないモノの存在を視る装置”、八谷和彦の「視ることは信じること」[1996]の3作品をもとに、感じることについて話す。
2.知ること
計測することを用いた作品群
「雲を測る男」-「視点ユニット」-「物的証拠」
金沢21世紀美術館の屋上で椅子の上に立ち雲を物差しで測る男の銅像、ヤン・ファーブル「雲を測る男」[1999]、ホワイトキューブ(白い箱)2閉じ込められたカメラが各種の計測機器を撮影し続けることにより撮影されていない範囲までに映像の可能性を提示する、時里充の「視点ユニット」[2014]、そして、出来事と、その出来事が現象として引き起こす痕跡/証拠を題材としたOAMAS谷口暁彦研究室の「物的証拠」[2014]の3作品を元に、知るということについて話す。
3.いつもどこかで視られている
無自覚な知覚、無意識の感覚について
「アイ・オー —ある作曲家の部屋」-「歩行者用通路の錯視シート」-「Painstation」
毛利悠子の「アイ・オー —ある作曲家の部屋」[2014]は、一種のインタラクティブ性をもった作品である。そこにある楽器やブラインドなどの日常から持ち出したような品々は、そこにやってきた鑑賞者の持ち込んだホコリによって描かれた楽譜を元に、自動で演奏されていく。鑑賞者はそうと知らされるのでなければおそらくその意図を永久に汲み取れないであろう。そのいずれか、が知覚されるということ。
村上郁也の特許である「歩行者用通路の錯視シート」[2008]は、目の錯覚を利用したよ後者の誘導手段である。この錯覚による意図せぬ人体の制御は人間の感覚と知覚の関係性を揺るがすものとなるだろう。
http://astamuse.com/ja/published/JP/No/2006002431
/////////fur//// art entertainment interfaceの「Painstation」[2001]は対戦型ゲーム筐体の形式をとるテレビテニスゲームである。しかしこのゲームは、テレビテニスの失点ごとに
プレイに使わないほうの手を鞭のようなデバイスで殴打する。ゲームという勝敗と優劣、競争の遊びにおける人間の機微を、否が応でも認識せざるを得ない構造となっている。
この作品をプレイすることによって、痛覚という逃れ得ぬ感覚から自分自身の内面を知ることとなるのだ。
4.拒否、そして知覚不可能であること。
「無題」-「黒の正方形」-「L'Origine du monde」
白のみのテクスチャーでカンバスに描かれたジョシュ・スミスの「無題」[2014]、白地に黒い正方形の描かれた、ただそれだけの絵、カジミール・マレーヴィチの「黒の正方形」[1915] そして光を吸収する顔料を用いて描かれた無限に深い穴、アニシュ・カプーアの「L'Origine du monde」[2004]これらの作品について
以下に引用した作品について、適当なリンクを羅列する。
ジェームズタレル,「Open Field」,2000.
http://jamesturrell.com/artwork/open-field/
hamatsu,任天堂失敗列伝~第三回~「バーチャルボーイの巻」,2015/2/2チェック.
http://d.hatena.ne.jp/hamatsu/20090510/1241950896
八谷和彦,「見ることは信じること」,1996.
http://www.petworks.co.jp/~hachiya/works/jianrukotoha_xinjirukoto.html
ヤン・ファーブル「雲を測る男」,1999.
https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=30&d=3
時里充「視点ユニット」,2014.
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2014/Openspace2014/Works/Viewpoint_Unit_j.html
思い出横丁情報科学芸術アカデミー 谷口暁彦研究室 「物的証拠」,2014.
http://materializing.org/14_oamas/
毛利悠子「アイ・オー —ある作曲家の部屋」 ,2014.
http://yokotori-art.tumblr.com/post/100816852651/4
ジョシュ・スミス「無題」2014.
カジミール・マレーヴィチ「黒の正方形」,1915.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E3%81%AE%E6%AD%A3%E6%96%B9%E5%BD%A2
アニシュ・カプーア「L'Oringine du monde」,2004.
http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?d=5&g=30
「私たちは動くために知覚しなければならないが、知覚するためには動かなければならない」
—ジェームズギブソン
0.はじめに
知ることと感じることの関係性について
さわりに、渡邊恵太の「カーソルによる手触り感提示システム」[渡邊 2003]に触れる。
VisualHaptics: カーソルによる手触り感提示システム
http://www.persistent.org/visualhaptics.html
今回のゼミでは芸術作品における知覚と感覚について考えてみようと思う。古典から近年の若手作家までの作品の紹介とともに、今回はテーマを視覚に絞り、それらについて論じる。
1.感じること
身体感覚を用いた作品群
「Open Field」-「バーチャルボーイ」-「見ることは信じること」
影の存在しない空間で無限遠を体感させるジェームズタレルの「Open Field」 [2000]、Ledとミラーによる構造で人間の視覚に立体感を与える任天堂の3Dゲーム機「バーチャルボーイ」[1995]、そして 裸眼では認識できない赤外線LEDを赤外線スコープで覗いたときに、文章として他人の生活を覗き見ることが出来る“見えないモノの存在を視る装置”、八谷和彦の「視ることは信じること」[1996]の3作品をもとに、感じることについて話す。
2.知ること
計測することを用いた作品群
「雲を測る男」-「視点ユニット」-「物的証拠」
金沢21世紀美術館の屋上で椅子の上に立ち雲を物差しで測る男の銅像、ヤン・ファーブル「雲を測る男」[1999]、ホワイトキューブ(白い箱)2閉じ込められたカメラが各種の計測機器を撮影し続けることにより撮影されていない範囲までに映像の可能性を提示する、時里充の「視点ユニット」[2014]、そして、出来事と、その出来事が現象として引き起こす痕跡/証拠を題材としたOAMAS谷口暁彦研究室の「物的証拠」[2014]の3作品を元に、知るということについて話す。
3.いつもどこかで視られている
無自覚な知覚、無意識の感覚について
「アイ・オー —ある作曲家の部屋」-「歩行者用通路の錯視シート」-「Painstation」
毛利悠子の「アイ・オー —ある作曲家の部屋」[2014]は、一種のインタラクティブ性をもった作品である。そこにある楽器やブラインドなどの日常から持ち出したような品々は、そこにやってきた鑑賞者の持ち込んだホコリによって描かれた楽譜を元に、自動で演奏されていく。鑑賞者はそうと知らされるのでなければおそらくその意図を永久に汲み取れないであろう。そのいずれか、が知覚されるということ。
村上郁也の特許である「歩行者用通路の錯視シート」[2008]は、目の錯覚を利用したよ後者の誘導手段である。この錯覚による意図せぬ人体の制御は人間の感覚と知覚の関係性を揺るがすものとなるだろう。
http://astamuse.com/ja/published/JP/No/2006002431
/////////fur//// art entertainment interfaceの「Painstation」[2001]は対戦型ゲーム筐体の形式をとるテレビテニスゲームである。しかしこのゲームは、テレビテニスの失点ごとに
プレイに使わないほうの手を鞭のようなデバイスで殴打する。ゲームという勝敗と優劣、競争の遊びにおける人間の機微を、否が応でも認識せざるを得ない構造となっている。
この作品をプレイすることによって、痛覚という逃れ得ぬ感覚から自分自身の内面を知ることとなるのだ。
4.拒否、そして知覚不可能であること。
「無題」-「黒の正方形」-「L'Origine du monde」
白のみのテクスチャーでカンバスに描かれたジョシュ・スミスの「無題」[2014]、白地に黒い正方形の描かれた、ただそれだけの絵、カジミール・マレーヴィチの「黒の正方形」[1915] そして光を吸収する顔料を用いて描かれた無限に深い穴、アニシュ・カプーアの「L'Origine du monde」[2004]これらの作品について
以下に引用した作品について、適当なリンクを羅列する。
ジェームズタレル,「Open Field」,2000.
http://jamesturrell.com/artwork/open-field/
hamatsu,任天堂失敗列伝~第三回~「バーチャルボーイの巻」,2015/2/2チェック.
http://d.hatena.ne.jp/hamatsu/20090510/1241950896
八谷和彦,「見ることは信じること」,1996.
http://www.petworks.co.jp/~hachiya/works/jianrukotoha_xinjirukoto.html
ヤン・ファーブル「雲を測る男」,1999.
https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=30&d=3
時里充「視点ユニット」,2014.
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2014/Openspace2014/Works/Viewpoint_Unit_j.html
思い出横丁情報科学芸術アカデミー 谷口暁彦研究室 「物的証拠」,2014.
http://materializing.org/14_oamas/
毛利悠子「アイ・オー —ある作曲家の部屋」 ,2014.
http://yokotori-art.tumblr.com/post/100816852651/4
ジョシュ・スミス「無題」2014.
カジミール・マレーヴィチ「黒の正方形」,1915.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E3%81%AE%E6%AD%A3%E6%96%B9%E5%BD%A2
アニシュ・カプーア「L'Oringine du monde」,2004.
http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?d=5&g=30
2015年1月28日水曜日
芸術に関する覚え書き。
芸術に関する覚え書き。
・芸術は可能か?
芸術作品というものは古くから創作され、また文化的、教養的価値を示す明確なものとして、社会的に保護され、また教養として伝えるために様々な国が美術館や博物館という形式で収蔵、保存、展示を行っている。
しかしこの芸術というものがどういうものであるか、また、どういうものでないか、という部分に関しては、様々な評論家や芸術家自身によって明瞭確乎とした定義を求めようという試みはあったものの、明確な芸術を芸術足らしめる要素というものは、言語化し切れていない部分がある。
特に古典以降、より自由なものとして発展してきた芸術は、絵画におけるキャンバスと油絵の具、彫刻における大理石や木、身体表現における場にいたるまで、従来のメディウム(媒体)にとらわれない表現手法を確立していった。ミニマリズムがポストミニマリズムに、ポストミニマリズムがインスタレーションアートに、と文脈を踏襲してつながっているように、それらの作品群は、それまでの作品のアンチテーゼであったり、その時代時代に対する表現手法として、様々な形を取ってきた。ここに至って、芸術というものはどのようなものであるか、という定義が、明瞭確乎としたものである、ということはどのような論法をもって言うべきであろうか。岡本太郎は「芸術は爆発だ」と言ったが、このようなセンセーショナルで強い言質は、あくまでもその個人の想いによるところが強いように思われる。
その中でもメディアアートというジャンルにおいて馬定延が著書「日本メディアアート史」において行った「国内外を問わず、言葉の射程が定まっていないなか、本書では「メディアアート」を作家と作品と観客を取り囲む環境としてのテクノロジーの発達に伴う社会現象として、またそれに対するアーティストの取り組み方の問題として定義してみたい」 という定義は、既存の芸術史における芸術の独自性、という観点をあえて排し、社会との関係性という点にクローズして語るという具体性において、従来の芸術の定義と違い、非常に柔軟性のある定義であるように思う。それはボイスの提言した社会彫刻という概念に連なる発想であるとも考えることが出来るだろう。芸術作品はその芸術作品が独自に芸術性を担保する訳ではなく、その場と環境との関係において芸術性を担保するのである。
・サイトスペシフィックな芸術
サイトスペシフィックというのは芸術と場所、つまり作品とそれがおかれる空間というものは不可分である、という考え方である。この考え方は、美術館のように展示ごとにその配置が変わる、また、作品の設置に作家の完璧な意図の介入を許さない制度に対する反発でもあり、ホワイトキューブのような白い隔離された展示空間や美術館という既存の場所性への批判でもある。
キャロル・ダンカンは芸術を美術館の機能と共に記述している、「美術館というリミナルな空間では,あらゆるもの—ときにはどんなものでも—がアートになりうる」と。現実という空間から隔離され、一種のメタ的な視点でもって様々な事象を問い直す、その芸術の性質はこの美術館のもつ、再考する場という機能によって担保されてきた部分が少なからずある筈である。これは古くはデュシャンの泉のような、美術館という機能と権威に裏打ちされた作品の存在からも窺い知ることが出来る。
参考文献
馬定延、「日本メディアアート史」、アルテスパブリッシング、2014
キャロル・ダンカン、「美術館という幻想 儀礼と権力」、水声社、2011
・芸術は可能か?
芸術作品というものは古くから創作され、また文化的、教養的価値を示す明確なものとして、社会的に保護され、また教養として伝えるために様々な国が美術館や博物館という形式で収蔵、保存、展示を行っている。
しかしこの芸術というものがどういうものであるか、また、どういうものでないか、という部分に関しては、様々な評論家や芸術家自身によって明瞭確乎とした定義を求めようという試みはあったものの、明確な芸術を芸術足らしめる要素というものは、言語化し切れていない部分がある。
特に古典以降、より自由なものとして発展してきた芸術は、絵画におけるキャンバスと油絵の具、彫刻における大理石や木、身体表現における場にいたるまで、従来のメディウム(媒体)にとらわれない表現手法を確立していった。ミニマリズムがポストミニマリズムに、ポストミニマリズムがインスタレーションアートに、と文脈を踏襲してつながっているように、それらの作品群は、それまでの作品のアンチテーゼであったり、その時代時代に対する表現手法として、様々な形を取ってきた。ここに至って、芸術というものはどのようなものであるか、という定義が、明瞭確乎としたものである、ということはどのような論法をもって言うべきであろうか。岡本太郎は「芸術は爆発だ」と言ったが、このようなセンセーショナルで強い言質は、あくまでもその個人の想いによるところが強いように思われる。
その中でもメディアアートというジャンルにおいて馬定延が著書「日本メディアアート史」において行った「国内外を問わず、言葉の射程が定まっていないなか、本書では「メディアアート」を作家と作品と観客を取り囲む環境としてのテクノロジーの発達に伴う社会現象として、またそれに対するアーティストの取り組み方の問題として定義してみたい」 という定義は、既存の芸術史における芸術の独自性、という観点をあえて排し、社会との関係性という点にクローズして語るという具体性において、従来の芸術の定義と違い、非常に柔軟性のある定義であるように思う。それはボイスの提言した社会彫刻という概念に連なる発想であるとも考えることが出来るだろう。芸術作品はその芸術作品が独自に芸術性を担保する訳ではなく、その場と環境との関係において芸術性を担保するのである。
・サイトスペシフィックな芸術
サイトスペシフィックというのは芸術と場所、つまり作品とそれがおかれる空間というものは不可分である、という考え方である。この考え方は、美術館のように展示ごとにその配置が変わる、また、作品の設置に作家の完璧な意図の介入を許さない制度に対する反発でもあり、ホワイトキューブのような白い隔離された展示空間や美術館という既存の場所性への批判でもある。
キャロル・ダンカンは芸術を美術館の機能と共に記述している、「美術館というリミナルな空間では,あらゆるもの—ときにはどんなものでも—がアートになりうる」と。現実という空間から隔離され、一種のメタ的な視点でもって様々な事象を問い直す、その芸術の性質はこの美術館のもつ、再考する場という機能によって担保されてきた部分が少なからずある筈である。これは古くはデュシャンの泉のような、美術館という機能と権威に裏打ちされた作品の存在からも窺い知ることが出来る。
参考文献
馬定延、「日本メディアアート史」、アルテスパブリッシング、2014
キャロル・ダンカン、「美術館という幻想 儀礼と権力」、水声社、2011
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