書評
「Body Art/performing
the Subject」 Amelia Jones Introduction
本書は身体を用いた芸術について、モダンおよびポストモダンの時代を中心とした作家の紹介および筆者の論考を記述した本である。
前半部分ではその時代の身体芸術と切っても切れない問題としての、ジェンダーおよび女性のヌードというセクシャルな面での身体美の西洋、アメリカでの確立についてを創成期をキャロリー・シュニーマンや草間弥生、その後をヴィト・ア・コンチ、アンディー・ウォーホル、ローリーアンダーソン、さらにはハンナ・ウィルケなどの種々の作家の例を上げ、ひもといていく。
この本の記述は1938年からはじまる。それは残酷劇というフランスのアントナン・アルトーによる、既存の演劇ジャンルに分類できない身体表現の始まりであった。現状のパフォーミングアーツと言う言葉が、既存の演劇、オペラ、ダンスに分類されないものを取り扱っていると言うことを考えれば、これは現在のパフォーミングアーツと言うジャンルの運動の始まりであると捉えることができるだろう。これをふまえた上で、次章から戦後のアーティストたちを取り上げていく。
冷戦さなかの保守的な時代、女性の側から性を取り上げ、社会に提示することというのは旧弊的な社会では一種のタブーであっただろう、これらのありのままの「性」、社会の中での女性のあり方問う作品群。シュニーマンの女性器からメッセージの書かれた紙編を取り出していくパフォーマンス「Interior Scroll」(1975年)に始まり、赤裸々な女性そのものを見せつけるパフォーマンスについて言及する。
次章ではシュニーマンの作品についての話を下敷きとし、草間弥生のハプニングなどの初期のパフォーマンスについて言及する。つまりストロングな女性性から、ファルスとしての男根などを用いた男と女の関係性、つまり性=セックスを取り上げたジェンダー論へとシフトしていく。彼女は確実に社会に消費される女性というイコンを意識して作品を形作っている。つまり社会の中で女性がどのように位置づけられていくのか、ということの葛藤、男性、女性という二分化されたジェンダーのなかでここにきて生きていく個人へとスポットが当てられていくことになる。ここには自分自身として在る女性と男性、あるいは社会から「見られる女性」という存在、立ち位置についての言及がなされる
この本で次に述べられるのはこのようなアートの時代性に置ける必要性、および、その周辺の作家たち、そしてその後出てきたヴィト・ア・コンチらの異性愛者敵趣向を持つ男性側からジェンダーを再定義するかのような身体芸術の動きに話しはクローズしていく。
これらの流れで大変面白いのは、これらの作品がすべて承前の作品のアンチテーゼになっているように感じられるところにあると思う。つまり男性社会へのアンチテーゼであるシュニーマン作品群に対し、草間弥生がその行き過ぎた女性主義を男女の関係性という視野まで広げ、それに対するヴィト・ア・コンチによる男性主義のぶり返しのような、男性中心主義への回帰、つまり、強くなった女性への恐怖や警戒を内包する(かのように見える)社会の中での男性の再定義というような傾向を持つパフォーマンスへとつながっていく。
次章でわずかに触れられているが、これらの流れは、その後アンディ・ウォーホルらの行ったようなホモセクシャル的な傾向を持つパフォーマンスへとつながっていく。世界はメトロセクシャルな方向へと移行していく。さらにはローリーアンダーソンなどの男性的傾向を持つ女性パフォーマーの登場によりジェンダーの問題は撹拌されていきつかみ所のないものへと変容を遂げていく。
だからこの本の表紙にもなっているハンナ・ウィルケがその後に取り上げられていることには一定のメッセージ性があるように思う。つまり彼女は、ある程度人々がジェンダーという概念から自由になった時代に、改めてジェンダーを再定義した作家だったのだ。彼女の代表作「Intra Venus」(1995年)は癌になった彼女自身の身体を撮影し記録していく。そこにはジェンダーという攻撃的な要素は排除されただ一人の生きる人が映し出されるばかりである。