2013年7月8日月曜日

無題


梱包芸術のルーツ
 そもそも梱包芸術とは主にクリストの作品群をさす言葉であるようだ。
「梱包されたライヒスターク」、「囲まれた島」、など包む、囲うことを目的とし、隠すことによってそのものを際立たせるという演出の手法であるように思う。これは隠すことを目的とした梱包であり、その後のジョンレノンとオノヨーコによるバギズム[1]という思想にもつながっていく。彼らは有名人である自分をバッグに詰めることで大衆の前から隠した。

 箱に梱包する、箱そのものを作品とする、という思想はデュシャンの「トランクの中の箱」やウォーホルの「ブリロボックス」などが有名である。前者は箱を中の詰まったものとして扱い、後者はブリロという本来なら洗剤の詰まっている箱の箱のみを制作することによって期待された内側の密度への裏切りのようなモノを内包している。また、ルーカスサマラスやジョゼフ・コーネルなど、箱をテーマにした作家なども多い。行為芸術家、海容天天という作家が自分自身を鉄格子の中に梱包するというパフォーマンスを公開したが、これは仕舞われることと見られることのせめぎ合いの中にあるパフォーマンスであるように思う。また北京の前衛芸術家・也夫は建物の壁面に透明のカプセルのようなものを取り付け、そこで公開された状態で半年間生活を行わせる、という「人間ミノムシ」という作品を公開した。梱包芸術の集成的な作品はハイレッドセンターとして活動していた時期に赤瀬川原平の制作した「宇宙の缶詰め」がある。これは蟹缶をあけて中身を食べ、外側のシールを内側に貼り直し再びふたを閉じることで、宇宙すべてを梱包した、と言い張る作品であった。

 人を箱に梱包するという発想は文学の世界でも多く見受けられる。これらはかくれんぼという擬似的な死の記憶であるとか、囲われた空間に仕舞うことでの所有の意志を示す、あるいは、押し入れに仕舞われると言った幼少期の記憶の再現であるものが多いように思う。
 作品としては箱の中からの情景を主観で語る安部公房の箱男や少女の四肢を切断して箱の中に仕舞う連続猟奇殺人を描いた京極夏彦の魍魎の匣などがある。

 アクリルケースに仕舞う、という作品は、近年では現代駄美術二等兵によるどーしようもないダジャレのような作品をアクリルケースでショーウィンドウのように梱包することによって、額装した絵のように付加価値を付随ずる、という作品群であった。その中でも「狭い」という作品は大変面白く、本来のものよりも少し首を傾けたミロのヴィーナスのミニチュアが、その頭ぎりぎりの高さのアクリルケースに仕舞われている、という作品である。
ダミアンハーストのNatural Historyは樹脂によって切断された牛や豚などを固めた作品である。

 梱包という発想は芸術作品をホワイトキューブという限られた空間の中で作品を展示していくというスタイルそのものの反芻であるようにも思われる。MOMA以降の白い箱状の空間に作品を展示していく、というスタイルそのものへの反発であるように思われる。箱の中で箱を展示するというマトリョーシカ的構造は、美術館という箱に飾られることによってゴミが一定の価値を持つというダダ派の提示した一つの価値観に依拠する。
 だから現在の芸術に必要な価値はただ“そこにあることの意味”であるように私は考える。

コンセプチュアルアートについて
 19601970年あたりに起こったアイディアアート、概念芸術、とも呼ばれる思想。ルーツはデュシャンのレディメイドにあるのではないか、と思う。グリーンバーグが抽象表現主義をアメリカ芸術がヨーロッパ芸術を乗り越えたと評したがその潮流に対する反発としてネオダダが起こり、デュシャンが再評価されることとなる。コンセプチュアルはネオダダの一環として起こった潮流である。現代美術はよくも悪くも、このコンセプチュアルという思想におかされているように思う。これらはつまり文脈、理解を前提とする考え方で少なくともキャプションなしにわかりやすい芸術というものにはならないように思う。


バギズム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%AE%E3%82%BA%E3%83%A0

2013年6月3日月曜日

指差し作業員について


この作品は衝動的という意味ですごくVito Acconci的であると言える。彼らは人に汚物をなすり付けることをアート言った、その時代はよかっただろう、芸術はある意味ではお綺麗すぎたし、ガチガチのルールに縛られていたからだ。反芸術というダダイストの信念は説得力があった。


しかし今はどうだろう、我々の前にはダダイストたちが破壊し尽くした荒野が残るばかりである。その穿り返された土砂の山を、今更穿り返して何の意味があるのか?

我々はそこに新しい秩序を築いていかなければならない。いずれ誰かが私たちの築いた秩序を崩す時が来るだろう。しかしそのときは、また新しい地平が切り開かれるはずである。もし時代が人を提起するのであれば、今芸術の世界は、再建のときである。いずれまた崩壊は訪れるだろう。しかし、崩壊の時を恐れてモノを形作ることを否定してはならない。


2013年5月28日火曜日

memo

老人

ペットボトルを利用していない。

何を伝えたいのか。


課題としてしかやってない。

問題を発見しよう。

広告代理店のまね。

発想が決まりきったもの。
自分の問題を考えようとしなかった。

なんで祭りにするのか。
人が集まればいいよね、という問題ではない。
きまりきった価値観でものをみない。

何ができるか。

大垣って言われても結局そういうものしかないんだなぁ。

未来を考えさせる、感じさせるものを考えよ。

歩み寄ることと提示すること。

ありがち
クソ

役所の考えそうなことを少しずらしました。感


ずれた感じの展開。

よけいな要素を増やさない。

「じゃあ日本の林業を俺たちが救える訳?」

どう提案できるか。

なるほど、デザイナーは依頼ありきだから考えがまとまるのか。
つまり突き動かされる情動が、内からか外からかなのかの違い。

文脈の中に入れることによって生きてくる。

根本的に欠落してる部分は補う。
(総体をみよ。)

多すぎるところは削れ、少ないところは足せ。

何で人でなくものを描くのか、タッチポイントを描く。

この授業の迷走(失敗とは言わない)は教員間での意思疎通の失敗にあるようにおもう。
デザイン、プログラム畑とアート、芸術畑では行為の動機付けの仕方が異なるので、そこの意思疎通が混乱したのではないかと思う。
教員も学生も混乱していたのだと思う。

2013年2月5日火曜日

私の話。

脚本
・明転

「でもそれで、一体どうしろって言うんだ。」

・暗転

鉄格子のようにも見える手すりに寄りかかり話をする二人。
「歌を忘れたカナリアは」
なよなよした美男子がふとつぶやく。
「おまえ歌なんか歌ったことあったか?」
中肉中背のややがっしりした体躯の男が返す。
「いやとんとないね」

場面は下へ
歯車を組む男、手にはレンチ

「精が出るね」
上から美男子が声をかける。
「そろそろ山場だ、もうちょいでこいつは動くんだ」
ひげ面の男か威勢良く返す。
「舞台美術みたいに行かないものな」
と中背の男が言う。
「あたぼうよ、こちとら中身も作ってるんだ!この発動機がどれだけ重いかわかるか」

美男子「少なくとも僕よりは重いだろうな…」

中背「俺よりも重いだろ」

ひげ面「そうだなあ、多分俺よりも重いぜ」


美男子「その、でかい歯車がいっぱい、車輪に連動して、戦車みたいに表に出てるのは、いいね」
ひげ面「ギアがかみ合って動くってのはいいからなぁ、機械ってこうでなきゃな」

美男子「出来たら教えてくれよ」

ひげ面「近いうちにテスト運転するんだ、そんときゃ知らせるよ」

美男子「よろしく」

・暗転

机で小説を書く男。
「うん、いいぞ、近年まれに見る傑作、私の才能に世界も嫉妬することだろう!いいぞ!すごくいい!すごく…はて…どこがよいのだろう、読み返してみるとさっぱりわからん、だめだだめだ!こんなもの!えーい!」
男、破り捨てるような動作をする。しかし一寸思いとどまって。

「しかし破り捨てるのも何だから、引き出しにしまっておこう。そろそろ引き出しがいっぱいになりそうだが」

「いかんなぁよく考えたらここ一ヶ月ほど家から出ていないぞ、しかたない、密室で一人で出来ることは小説を書くことぐらいというが、いかんせん経験に基づかない小説は面白くない、ここはひとつ大学にでも出かけるか。」
立ち上がる男、顔をあらい、無精髭をそりだす。

・暗転

2013年1月17日木曜日

『なる』っていうのはアライグマくんのスキなところをスキだって言うのに似てるよ。―いがらしみきお 「ぼのぼの」


 誰もがみんな、何かになりたい、と思う。僕は昔マイケルジャクソンになりたかった。舞台の上でみんなを魅了する大スター。彼に一挙手一投足にみんなが目をみはり、歓声を上げる。

 言い換えれば僕はアイドルになりたかった。人々に見られ、褒められることで自己承認欲求を充足したかった。

 幼少のこんな欲求の不完全燃焼、それが僕の制作の動機になっている。子供の頃は誰もがみんなドラゴンボールの孫悟空に憧れた。でもいつかみんな自分は孫悟空でないことに気付く。

 小学生の頃、私はセーラームーンになりたかった。中学生の頃、私は広末涼子になりたかった。美容室に「広末涼子にしてくれ」といって髪を切りにいった。高校の頃私は椎名林檎になりたかった。「ジャニスイアンを自らと思いこんでた 現実には、本物がいるとわかっていた。」と言う歌詞に感銘を受けた。そして私は、マイケルジャクソンに憧れた。アンディウォーホルに憧れた。ジェンダーという垣根を乗り越えるあの超越的な何かに憧れたのだ。僕はいつでも僕ではない何かに憧れ続けている。

2013年1月2日水曜日

The idea was to be a symbol.
Batman could be anybody.

バットマンはシンボルだ
バットマンには誰でもなれる マスクをつければ
— ダークナイトライジング

john smith


from the Voice (not We are the World)


声とはなにか。認識に必要な記号である。
我々は多くの理解を言語に頼る。原初、人は理解を、知識を世代を超えて伝えるために言語を持ったのか、何しろ私はその時代に友人がいないので定かではない。
音というものは現在存在する情報伝達手段の中で、もっともノイズの多く、情報伝達の効率も良くない。
ラジオはテレビに淘汰された。音というものは非常に伝わりにくい。しかし情報の理解の根源的な部分にかかわるものである。
たとえば小説を読むとき、文章を読むとき、「黙読」とも言うとおり、あなたは頭の中で音を再生、シミュレーションし、理解しているはずだ。
音というのは思考と理解に密接にかかわりあっている。我々の思考速度は口の動きと等速なのだ。




音というものが語られるとき、その性質(たとえば波形、高い音か、低い音か)についてのみが語られることが多いように思う。
我々は幼少のころから音楽に満たされた生活を送ってきた。たとえば昔の漫画などで極端に音痴なキャラクターという描写がままあるがこれはかつては音楽というものを再生する機器がまだ世にあふれておらず生きていく上で音楽に触れる機会が少なかったがゆえに起こる野ではないか、という考察をどこかで読んだことがある。


環境が人を変える。




5次元の存在




other
walking the city
 このプロジェクトは留学中UdKのヨアヒムザウター氏のゼミで「sensing the city」というテーマでデバイスやウェブ媒体を用いて都市情報をアートとして再構成するというクラスの中で行ったものである。
都市をセンシングする、というテーマのこの講義ではCosm(ArduinoやProcessingと連携した計測データ共有サイト)を用いて都市構成そのものを記録するような性質のものから、ベルリンの町をサーモ撮影しグラフィックを制作するようなもの、S-bahnの路線沿いのグラフィティの分布の統計を取りそれを地図上にグラフィカルに構成する作品などさまざまな作品が見られた。


walking the city

町を歩き町を音楽に。

この作品の発想の根源は、演奏というものそのものに対する疑問から生まれた。ノイズ音楽というものは往々にして人と机によって演奏される。
演奏者は机の周りを行ったりきたりし、音を鳴らしたりミキサーを操作したりパソコンをいじったりする。
ただこれらは還元してしまえばサンプリングと目盛り(或いはメモリ)の操作が複雑化したものである。
原理的なことをいえば、この作品はサンプリングを私の周りの音に、目盛りの操作を私の周りの環境に託した作品である。
首元に固定されたカメラで周囲の環境を記録しながら、帽子に取り付けられた10個のマイクで自らの周りの状況、音をセンシングし周囲の音をリアルタイムにノイズに変換する。







音の循環系

サンプリングした音源を鳴らす。
この行為の裏には録音という行為が潜んでいる。
ある人はこの音が面白い、と思ったものを録音し収集していく。

2012年12月13日木曜日

男の話4

               

 生きて行く上でコスト管理というのは非常に重要な問題である。例えば本を買うときに考えることがある。この本棚にあるルーブル美術館の目録は1万円もするもので購入するときに大変に悩んだものだ。しかし例えばルーブルに直接行くのであれば渡航費だけで往復10万円前後かかる。ルーブルの入館料は10ユーロと大変お安い訳であるがなかんずく上野の国立科学博物館さえ一日で見て回れないわたしには、かの有名なルーブルを一日で全て見て回るというのも厳しかろうと思うのでまあ見て回るのに二日、パリ絵の到着時刻その他諸々を考えても4日は滞在するとするとそれだけの宿泊費も発生する訳でとてもではないが1万円そこらでルーブルの絵を見るという訳には行くまい。モナリザは想像よりもずっと小さい、ということはよく耳にするが、別に本であればそんなことは心配する必要はない。ペラペラとめくる、イタリア中期の宗教絵画のあたりが私は好きで、この時期に描かれたキリストはなんと言うか不思議な雰囲気を持っている。やせて、瞳はどこかうつろで寂しく、そしてやや中性的なような感覚、それはどちらかというと肌の質感に由来するのではなかろうかと思う。油絵の具で描かれたキリストの皮膚はどこか艶かしく、うつくしい。そんなことを言っても、写真が本物に勝る訳がない、と人々は言うかもしれない。その場所で見るからこその感動があるのだ、という人があるかもしれない。しかしそのわずかな差を体験するために果たして10倍以上の金をだれが出そうか?わたしはかつて中学高校の頃修学旅行と称して京都の伝統的な社寺仏閣を巡ると言う偉業を成し遂げた男であるが、その当時のことなどこれっぽっちも役になど立っていないし、もはやそのとき見たお寺や神社のことなど、ほとんど忘れてしまった。
もしわたしの根本的な人格形成にその経験が生かされたのだ、という人がいたならば、その人に言ってやりたい。では京都に住む人間は今頃悟りをひらき仏になっているであろう、と。もしかしたらそういうことを言う人は、全てに悟りをひらいた仏なのかもしれぬ。ナムアミダブツナムアミダブツ。

               

 太陽は常に東からのぼり、放っておいても西に去って行く。そのときわたしは太陽を背負って運ぶ必要もなければ、台車に乗せて引きずって行く必要もない。太陽というのはできた奴である。奴はわたしに負担をかけることなく、そしてわたしが心配せずとも世界は平常運行して行く。わたしが我が部屋に引きこもり、もはや外界との積極的な交流を断って、約半年が経過していた訳であるが、その間に世界は何か変わったであろうか。
 何も変わっていないのである。否、様々な変化はあったし、わたしの知らぬ間に様々な季節が移ろったであろう、しかし今日も太陽は西からのぼって東に沈むことはなく。世はこともなく平安でありをりはべりいまそがり。
かくて我々は山奥の養鶏場にて一羽の鶏を入手し、一路山道を下った、目指す先は私の家であると言う。なぜ私の家で?理由は簡単であった。
「きみの快気祝いだからだよ」先輩はそういってにんまり笑った。
出雲絵里は無表情であった。

               

Don't care if you do 'cause it's understood
you ain't got no money you just ain't no good.
                Ray Charleshit the road jack

               

「カタン」
とポストに何かが入った音が聞こえた。私の家はなんてことのない六畳と四畳半の二間のアパートである。ポストはドアと一体になっており、風通しのよい、夏はいくらか過ごしやすいが、冬にはやや、いや,ものすごく寒い部屋に投函物がポストの中に落ちる音がきれいに響くのである。
さてはてなんであろうか,と思う。
わたしは今家で寝ている。木目張りの天井がわたしの目の前には広がっている。どれ一つ確認に行くか。と思い布団から出る。
寝起きの頭は全身にうまく指令を出せず、いくらか体の末端まで力が入らず、ふらつく。道中一度入り口の横にあるキッチンの角に腕をぶつけ、大変痛い思いをした。理不尽である。
ようやっとドアの前迄たどり着くとそれは切手も何も貼っていない一通の手紙であった。
「本日午後5時駅前喫茶店西武にて待つ。」
と汚い筆跡で書いてあった。

               

 久々に大学に出た私は、とりあえず頭を抱えて単位の計算をした。思いのほか一、二年次にまじめに単位を取得していたおかげもあって、後期のみの通年でない講義にこれからうまいこと出席して行けば,どうにか留年は免れそうである。ありがとう一、二年次の私よ。しかし大学というところはあまりにも人が多くて、めまいがする。私は家から出る段で一度日光のあまりのまぶしさにめまいを起こし、バスに詰め込まれた人々の圧力でめまいを起こし、大学でははて知り合いに会ったらどんな話をするか,などといらんことをつらつらと考えてしまったが故にめまいをおこした。
 目頭を押さえて大学の図書館でうずくまっていると、後ろから肩を叩くものがいる。はて,と思って顔を上げ振り向くと、そこには先日の鶏解体騒動のとき喜々として小林とともに鶏を解体していた柄沢くんであった。
「やあ、どうもこんにちは」
と彼は笑顔で言った。
はて彼は厳密に言えば後輩に当たる訳であるが、後輩というものにどういう風に接したらいいのかわからぬ。王様のように,慇懃に対応すればいいのであったろうか、どうも年下というのは苦手である。
「ああ、うん」
となんとも釈然としない返事をしてしまった。彼は手に動物の図鑑のような本をもっている。
「それ…」
と私が言うと、彼はああ、と続けてこう言った。
「先日の感触を忘れないうちにいろいろ確かめたり、記録したり、しようと思いましてね。」
と言ってにっこり笑った。小林といい、こういうことに躊躇のない奴らの笑顔は,なぜかまぶしい。なぜだろうか。
私たちは二三たわいもない話をして。またどうせ近いうちに、先輩に呼ばれて顔を合わせるであろう、という話をして別れた。
図書館という空間はあまり会話するのには向かないし、そんなものである。
ただ人は時に意味もない、他愛もない会話をしたがるものだ。こういうときに行われるのはたいてい、事実の確認である。ああいうことがあったよね。ああ、あったあった!という、脳のなかにある記憶の再確認、思い出の答えあわせを求めるのである。そうすれば少なくとも、私の記憶は肯定されたのだ、と自己承認欲求を満たすことができる。承認されたのは自分自身でなく、その過去の環境の記憶であり、その過去そこにいた自分であるが、本人に取っては関係のないことだ。そういえば昔どこかで聞いたが、人間の脳というのは、厳密には未来過去現在を区別できないという。過去の事実を想起させ、脳にまた快感物質を分泌することによって、人はその時の幸せと同じ幸せを獲得するのだという。何となく後ろ向きである。そんなことでいいのか,とも思う。しかし多くの人はこの快楽に溺れることを一つの人生の目標としているし、我々が同窓会などで集まるのは、この思い出す快楽の想起の幅に関して日常生活の範囲では満足できなくなり、より遠く過去を思い出すためにあの頃は何だ、とか、昔はよかった、と言う話をするのである。
「昔はよかった…か」
と思わず私は口に出した。
今がよかったことなど全ての人間にとって、一度たりとてないのではなかろうか。常に,今よりまし、と言う意味合いで、昔はよかった、と発話する。
未来のことなどまるでわからない。

               

「いったい——いったい宇宙はどんなふうに滅びるのですか?」
「われわれが吹きとばしてしまうんだ——空飛ぶ円盤の新しい燃料の実験をしているときに。トラファルマドール星人のテスト・パイロットが始動ボタンを押したとたん、全宇宙が消えてしまうんだ」そういうものだ。
—カート・ヴォネガット・ジュニア「スローターハウス5」

               

かつて小林と居酒屋で流し込むようにアルコールを摂取していたときに見知らぬおっさんが話しかけて来たことがある。おっさんはデパートで働いている営業マンらしく、談笑のなかに仕事の愚痴を織り込むのが大変うまかった。そのとき小林と私は漫画の話をしていた。おっさんが話すのは結構昔の漫画か、あるいは俗にいう青年漫画と言うサラリーマン向けの漫画などの話であった。私はさっぱりだったのだが、小林は結構その方面にも詳しいので、さいとうたかおやら名前も知らないような時代もの漫画の話に花を咲かせた。私は当時出雲絵里との関係がうまくいっていなかったのでせっかくの小林とのやけ酒を邪魔され不機嫌であり、黙々と酒を飲んだ。
「漫画ってのはいいよなぁ、そうそう、最近の若い人は漫画を描いたり結構するみたいじゃないか?きみなんか、漫画も詳しいし描いたりするんじゃないかい?有名になったりしてな、ははははは」
おっさんは赤ら顔でそんなことを言う、調子のいいものである。このようなおっさんという生き物は自分のやっている仕事以外の苦労や難しさをまるで理解しないのだ。漫画だって描くのは大変であろうし、ましてやプロとしてやっていくのはとてつもない労力だろう。年配の人間というのは想像力に欠けているのではないか、と常々思う。
「そうだ、君たち二人でコンビを組んでやったらいいんじゃないか、藤子ええとなんだっけ、あの、二人組みたいに、そう、無口な君が原作をやってさ!ははははは、案外人気が出るかもしれんよ、コンビ名はこの皿の上のちくわとはんぺんから取ってちくわはんぺんなんてのはどうだ?いいなまえだとおもうなぁ、わたしは!」
と卓上のおでんを箸で示しながら一気にまくしたてると
「お姉さんウィスキーみっつ!」
と店員さんに叫んだ。
「おれのおごり」
とニッと笑った。おごってもらえるのであれば、と小林と私はそれなりに呑んだ。徐々に我々は打ち解けたがそれがおっさんの話術故か、アルコールの過剰摂取で脳の機能を阻害されたのかは、もはやアルコールの過剰摂取で判断できなかった。おっさんは、
「いけね、奥さんに怒られちゃうから、わたし、先に失礼!たっしゃでなあ!」
と言って今迄の分の会計をすませてそそくさと帰っていった。
迷惑だけどありがたいことではあったので我々は払わなくてよくなったここの会計の分でさらにもう一軒別の飲み屋へと行った。
小林はある程度以上呑むと最寄りの人にべたべたと触ってくる癖があるので大変に面倒くさいが、その辺りの挙動が怪しくなるだけで、基本的に奴はどれだけ呑んでも思考は明晰である。逆に私は呑めば呑んだだけ思考を疎かにするので私が発する種々の愚痴や放言に、小林が明晰かつウィットに富んだ返答をすると言うパターンに陥りがちだ。ただ私が酔って同じ愚痴を繰り返すと、奴も奴で前回とまるで違う答えを返すので端から見ると明晰に見えるだけで、本人は相当に酔っぱらっているのかもしれない。
我々は結局、その二軒めの飲み屋でもしこたま呑み、ゲロを吐きながら帰宅し、最寄りの私の家の玄関を開けるや二人で玄関にぶっ倒れた。

               

Well, I guess if you say so
I'd have to pack my things and go. (That's right)
Ray Charleshit the road jack

               

「あ、やっと来た。5時って言ったでしょう、いま何時だと思ってるんですか?5時20分ですよ?」

               

 生物学科の研究棟へぶらりと足を運ぶと、生け垣からジーンズを履いた足が生えている、なんであろうと覗き込むとそこになぜか先輩がいた。先輩は道ばたの生け垣に身を埋め空を見ている。端から見たらとんでもない光景である。
「なにやってるんですか?」
「空を見ているんだ」
そうであろう。
「空を観察しているとだいたいこれからどんな天気になるか、わかるものだよ、夕方に一雨来そうだな。」と先輩は言った。
「ほう、さすが先輩ですね」
と、うやうやしくうなずくと
「まあこれは今朝天気予報を見たんだがね。」
拍子抜けである。
「実は小林君に頼まれごとをしててね。」
と私を笑いながら言った。
あいつは先輩もうまく使うな、見習いたいものだ。などと考えていると少し奥の生物学研究棟の扉を開けて白衣を着た小林がやって来た。
右手にはアタッシュケースをもっている。
「ん、なんだ、めずらしいな、いや、そもそも学校にいるのが珍しいのか」
余計なお世話である。
「おお、ちゃんと計っておいたよ。」
ありがとうございます。と言って小林は先輩から紙切れを受け取った。よく見ると先輩の足下には実験室で使うようなシャーレが8個程並んでいる。そのなかには何やら青色の物体がかたまっている。
小林は手慣れた手つきでシャーレを回収してアタッシュケースの中にしまった。
「しかし、太陽が雲に隠れてた時間とそうでない時間なんか計らせて、何をしようというのだね。おそらく感光とか、薬品硬化とかそういう感じのことだろうが。」
と先輩が言った。
「そこまでわかってれば特には説明することもないですよ。紫外線で硬化する薬品の濃度の検査です。ちょっと次の実験で必要でしてね。」
ふうん。と先輩は言った。
「僕がたまに趣味でやるシルクスクリーンで使う薬品と同じ色だったからね。」
さすがの観察力である。しかし読者諸兄、お気づきであろうか、私のこのコミュニケーション能力の無さ、一対一での会話でならいいが、複数人での会話となると、私は急に会話の表舞台に出ることが億劫になるのである。当人達が楽しそうに話しているのであれば、何も私がそこにしゃしゃり出ることは無かろう。世界は私抜きでも回っているのだし、そこに私が無茶に出て行く必要は無いのだ。なんだか鬱々とした気分になって来る、このままではよくない。どうにもよくない。ちょっとコーヒーを買って来る。とその場を離れようとすると、なんだじゃあ僕も研究室の戻ろうかな、と小林も立ち上がった。
「先輩はどうします?」
と小林は言った。
「わたしはもうしばらく、こうしてようかなぁ。」
そういって先輩はまた生け垣にごろりと寝転がった。
結果的に私は小林と生物学研究棟へ向かい入り口に入ってすぐの自販機でコーヒーを買いコーヒーをちびちび飲みながら、小林と少し談笑した。
コーヒーは少し苦かった。

               

 いいえ。唯一の意味は、それを声に出して読んだときのものです。
                —マルセル・デュシャン ピエール・カバンヌ
                「デュシャンは語る」

               

とても眠い。でも寝てはいけないので、ぼんやりとしたあたまのまま、そこかしこをながめる。ふわふわと眼前に白いもやのようなものが浮かんでいるような気がする。そのもやはじょじょに広がって視界の全てを覆ってしまう。ゆめなのかもしれない。ゆめかうつつか、うつつという言葉は実にいい。うつつと言う言葉をイメージしてこのうつつと言う言葉の現実感の無さに思いを馳せてほしい。なんだうつつって、夢よりも言葉の響きとして現実感が無いだろ。

               

 はて、今朝私の家のポストに投函された手紙をあらためてひらいてみる。
午後5時はもはや刻一刻と迫り今から指定の場所に急いでも間に合わない程である。本心を言えば行きたくない。しかし私はあの文字が誰のものか知っているので、そう無碍に扱う訳にも行かぬ、しかし今更になって、何だというのだ。一体何があるのか。それは私に得な話であろうか?
今から行ってもどうせいないのではないか、ただ罵られるだけではあるまいか。しかしかといって約束を破るのもなんだか気が引ける、しかし帰りたい。
よく考えたら今日はなにか用事があったのではなかろうか、等とうんうん唸りながら街を行く。気がついたら私は約束の喫茶店の方へと歩を進めていた。

               

まったくもって浅はかなおばはんだ。おばはんに死を。呪いつつ歩いていくと、誰かを待っているような格好で銀の策を背にして赤いスカートを着た中年の女が立っていた。権現への道順を尋ねようと近づいていったが駄目やった。女は芝居の稽古でもしているのか、傍らに誰もいないにもかかわらず、「そうなのよね、それでね」とか「うん実はね、それがそうなのよ」と
—町田康 「権現の踊り子」