カニというのは、どちらかというとクモに近い生き物らしい。そしてカニより人間に近い生き物とは何か、と言われたら、なんであるか。そう、それはホヤである。ホヤの幼生が繁殖の範囲を広げるために魚のような形質を取ったところから、俺たちの祖先である魚が生まれそれが脊椎動物の始まりである、というのは割と有力な説のようである。俺たち人間の祖先として有名なのは猿であるが、つまり、ホヤにタイプライターを打たせても、いずれはシェイクスピアのハムレットと全く同じ文章ができるのではないだろうかという理解でおおよそ間違っていないだろう。俺はこれを『無限のホヤの定理』と名付けようと思う。
ところでハルヒがショッカーの海底地震作戦を推進する怪人カニバブラーになって随分経つが、あいつは今日も変わることなくパソコンで不思議なことはないかと2チャンネルを徘徊している。
「カニが食べたい」と長門が言ったので、今日はSOS団の部室でカニ鍋をやることになった。カニ以外の具材は各人の持ち込みで俺は無難に白菜と豚肉、古泉は機関の金で高級松坂牛と松茸を、朝比奈さんは食料難の未来ではなかなか食品が入手できなかったらしく、砂のような味がする大きなヒトデを、そして長門はレトルトカレーと知性のあるトカゲを用意した。鍋奉行を請け負った朝比奈さんは知性のあるトカゲの鱗を綺麗に剥がしてゆき、首筋に包丁を入れて血抜きを始めるのだった。俺たちはコタツと鍋用のコンロなどを用意して、着々と準備を進めた。朝比奈さんの鍋奉行を実に的確であったが、奉行ゆえに来年の参勤交代では江戸へ出向かなければならないらしく、皆はやがて訪れるであろう短い別れの時を想像して、少し寂しい気持ちになったのだった。
バルタン星人は「さよならだけが人生ならば」で始まる詩を諳んじて、俺たちを元気付けているようだった。俺たちは思い思い、SOS団の思い出を話していくのだった。
俺たちの思い出話を聴きながらバルタン星人は頷いているばかりだった。
「人生とは別れの連続なのだ、悲しいこともあるし、寂しいこともある、しかし人間は、また出会うことができる、そして、また新しい出会いが進むべき道の先にはまっているのだ」
遠い昔に故郷と同胞を失ってしまったバルタン星人は胸の中に抱える大きな孤独と向き合って、そう言うのだった。
さよならだけが人生ならば
また来る春は何だろう
はるかなはるかな地の果てに
咲いている野の百合何だろう
さよならだけが人生ならば
めぐりあう日は何だろう
やさしいやさしい夕焼と
ふたりの愛は何だろう
さよならだけが人生ならば
建てたわが家は何だろう
さみしいさみしい平原に
ともす灯りは何だろう
さよならだけが人生ならば
人生なんていりません
-寺山修司『さよならだけが人生ならば』
-「百億の昼と千億の長門有希」完