2017年12月10日日曜日

憂鬱な遺伝子を長門有希につけて

「“人間は根源的に時間的存在である”って言葉を知ってますか?」
ハイデッカーだか何とかと言うドイツ人が言った言葉である、と言うのは何となく知っていたが、なぜその時朝比奈さん(大)が今そのようなことを言ったのかは理解できなかった。
「私たちの存在は基本的に時間と言うものの流れから外れることはできません。例えば、私とキョンくんが長門さんの家で三年間時間凍結されていた時がありましたよね。世界では三年の時間が経っていたのに私たちはあの三年を知覚できませんでした。一瞬で三年が経過した、と、そう感じたはずです」
確かにあの時の三年を知覚出来ていたとしたら俺は朝比奈さんと同じ部屋で三年を過ごしていた訳で、朝比奈さんのようなエンジェルと二人きり同じ部屋で過ごすと言う夢のような生活を知覚できていなかったのだとしたら、俺はナイアガラのごとく滂沱の悔し涙を流すことだろう。
「私たちの主観で考えてみてください、私たちは存在しているのに私たちが世界を観測できたのは時間が凍結されてない間だけ、つまり、時間のない世界では私たちは存在していなかったのかもしれない」
それはシュレディンガーの猫であるとか、エヴェレットの多世界解釈であるとか、そう言う話のような気もするのだが、難しい話はあとで長門に聞いてみるとしよう。
「私たちは基本的に時間というものと共に存在しています。でもそうじゃない存在が、私たちの知る身近な人の中にいるはずです」
そこまで言われて俺はピンと来た、随分昔のことになるが、長門が情報統合思念体について話していたことを思い出したのだ。
「情報統合思念体は、時間的存在じゃない…?」
俺が疑問の声をあげると、朝比奈さんは小さくうなづいた。
「情報統合思念体は、時間の外側にいる存在なんです。もっとも、TFEI、つまり長門さんたちのような存在は、情報統合思念体が私たちにアクセスするための手段として、時間的存在にならざるを得なかった所があります。それが、長門さんが感情を持ったことの一つの原因なんじゃないかと私は考えています」
生物の感情というものは人間の自由意志であるとか、脳細胞のシナプスの接続経路とか、そういうものではなく「時間」に由来するものであるではないか、という朝比奈さんの仮説は一定の信頼を置けるような気がした。

 人間は物事を常に時間を付随して観測せざるを得ない。仮に一秒間に正三角形の線の上を1cm進む点Pが頂点Aから時計回りに出発して5秒後にどこにいるか、という問題を考える時に、いや、今ここで三角形の一辺の長さを定義していないことに関してのツッコミは置いておくとして、5秒後という「瞬間」に時間が存在していないか、というと、それは誤りなのだ。断続的に続く時間の一点を写真のように切り抜いたとしても、写真がシャッター速度によって定められた露光時間の光の反射の記録であるのと同じように、「今、その時」という一瞬も時間とともにあることは変わらないのだ。
 人は、常に時間とともに歩む、そして過ぎ去った過去が二度と戻らないものであり、これからくる未来というものが予測不可能なものだからこそ、人は悲しみ、喜び、不安に怯えるのだ。
 情報統合思念体にとって時間というものは過去未来現在全て同時に訪れるものなのだ。長門だって異時間同位体と常に同期していた時は、まさにそうだったのだろう。
つまり、長門は。宇宙開闢から宇宙の終わりまで、もっと言えば長嶋監督の国民栄誉賞の受賞や、誰も予想すらしなかったニューヨークメッツの優勝や、人類の滅亡や、俺と図書館に行ったことや、ドラクエⅢの発売日の大行列や、国鉄民営化と郵政民営化を同時に経験している訳である。3歳児なのに。

 人間、つまり時間的存在にとって、観測も行動も、全ては時間と共に存在するものである。つまり、死とは、人間が時間的存在という制約から解放されて、その人の生きた期間、という時間にとどまることなのではないだろうか。
だとすれば、死とは、人間を時間という枷から解き放つための唯一の道なのではあるまいか。
 死、その時から、観測者にとって時間の概念は消失する。古代エジプトの神官は、これを肉体と霊魂の分離と考えたが、それがそもそも間違いなのではあるまいか。
霊魂が戻って来るために肉体を保存する、という行為そのものが、時間という概念に縛られる愚かしい行為だ。

死とは、救いであり、救済なのだ。

 なぜ、俺は死というものを恐れていたんだろう、今、考えてみれば、死とは時間という人間を縛る檻から解放する唯一の手段なのだ。
死こそが、俺たちが目指すべき、神へと至る道なのだ。

「憂鬱な遺伝子を長門有希につけて」完