2017年12月11日月曜日

デューン 長門有希の惑星

人類と宇宙人とのファーストコンタクトは、「野球をしたいから校庭を貸して欲しい」という、近所の草野球チームの陳情のような形でやってきた。
朝倉涼子という宇宙人の投げた外角低めのフォークボールを受け、長門有希という宇宙人の放ったホームランボールによって、北高の校舎は跡形もなく消失し、涼宮ハルヒという人物もまた、この時にボールと空気の摩擦によって発生した5の28乗ギガジュールの熱によって跡形もなく蒸発してしまったのであるが、季節はずれの風邪で寝込んでいた俺にとってそれは、後で聞いた話になる。谷口は「仰天動地だ…」と言っていた。

その宇宙人は「人間が死ぬ」ということに大変な不思議を感じた。なぜならば、本質的に時間的存在ではない情報統合思念体という概念である宇宙人たちにとって、時間とともに常に死んでいきつつある人類という物質的な種そのものが理解できなかったからだ。
進化にまつわる進歩的な情報を遺伝子のみではなくミームとして外部に依存するということも、情報そのものの集積体として生きる情報統合思念体には理解できないことだった。少なからず、人間という生き物は、死ぬ、ということによって消失するらしい、ということは理解できるのだが、この、消失する、という性質が情報統合思念体にはうまく理解できなかった。
物質は、例えば原子レベルで言えば物質の総量は変化していないのにもかかわらず、血流が止まるであるとか、それによって細胞への酸素供給が不足して分子構造が変化するとか、そういうことによって、人間は死んだり生きたりするらしい、ということに大変不思議を感じていた。

あわよくば、自分自身も「死んでみたい」と願ったのかもしれない。
そして宇宙人たちは、自分自身の血の流れを止めて、みんな死んでしまった。

その時、古泉には富士山という概念に成り果て、もはや自我というものが存在していなかった。そこにあるのはまごうことなく富士山であった。富士山が人間として存在しているという矛盾は、古泉の常識的な精神を次第に蝕んでいき、ついには富士山を演じる古泉は、中途千代の富士などを経由するなどの回り道はあったものの、古泉を演ずる富士山となり、最終的には富士山そのものとなったのだ。日本に富士山が二つある、という大きな問題が依然としてそこに横たわっているわけではあるのだが、これは観測者が人工知能になることで解決する。つまり数学の探索アルゴリズムにおける局所的山登り法を用いて、日本で一番高い山である富士山を探すために現在地よりも高い位置へ移動し続けることによって、たどり着いた頂点を富士山だと仮定する方法である。局所解は大局解から見ると大きな誤り含んでいることが明確であったりするのであるが、この方法によって導き出された富士山は、観測者にとって常に一つである。だから、富士山が二つあっても、富士山は常に一つしか観測されないのだ。

「デューン 長門有希の惑星」完