2021年9月7日火曜日

オートノマスな物語生成機について あるいはハツカダイコンに関して

 「あの部屋に誰かいた?」 −スタニスワフ・レム「ソラリスの陽のもとに」

 ふと自分が大学というものに10年所属している、という事実に気づく。

ちょっとした長方形を想像してみて欲しい。その長い方の辺の中心にまず折り目を入れて印をつける。そしてそこを基準にして、紙飛行機を折る時の要領で三角形に畳む。片方の折れ目を元に戻して、斜めに折られて残った折り目の中心に、ちょうどバツ印になるように対角の折り目を作る。そしてその円の中心を基準にして37度、右に4センチ先に鉛筆で印をつける。

 目の前の風景は目まぐるしく変わるが、自分自身というものは変わっていないと思ってしまうのは、そこに確固たる自分がいる、という信仰があるからだろうか。

 それとも人は本質的に変わることができない、と信じているからだろうか。それは些か悲しいことだ。

 少なくともここ20年ほどは人類というものは進歩していて、世の中は幾分にも過ごしやすくなったかと思う。少なくとも痰壷はなくなった。物語というものは嘘なのだと信じられるようになった。信じるべきものは本来何もないのだ、ということも、いくらか理解されてきたのではないか。

 コインを投げると2分の1の確率で裏か表が出る、と信じられる。確かなことだ。

 少なくとも、目の前のコインは垂直に立っている。表でも裏でもないが、コインを90度回してみれば、表か裏に見えるかもしれない。


 1.さまざまなテクストについて −マルティン・ハイデッガー「芸術の根源」

物の物体性、というものが本当にあるのか。甚だ怪しいものだ。と思う。

 円を無限に分割することのできる機械は時計として機能しうるか。というのは考えるに値することだ。多分それは時計という名前になるだろう。少なくとも、デジタル時計ではない。

 空間を二つに分割するものがメトロノームになって、空間を二つに引き裂く音がリズムになる。物しか信じるものがないなら、世界は多分そう見えるはずだ。

 分け隔てることで理解する以外の理解の仕方があるだろうか。

何かを記録することはなにかを破壊することなのだ、というのをある展覧会で示唆された時に、破壊しない記憶の仕方、というものはあるだろうか、と考えたが少なくともパッとは思いつかなかった。(例えば、何か、生き物が増える、というような単純な計数上の変化でもいい、その場合、子を持った親は、子を持つ前と同じだと言えるだろうか? 少なくともその観点は些か、失礼なように思えるし、やはり、以前とは違う何かとして以前の形質を毀損されているように考えられる。それが例えば喜ぶべき変化だったとしても、前の状態は失われているのだ。損失、ないし喪失であることには違いあるまい)(ところで、多分僕が文中にカッコを使ってこういう文章を書くのはかいけつゾロリの影響だ。)

 陶片はそこに印を刻み付けたものたちの死んだ後にも残り続ける。文字というものは全て、死者との交信である。エジソンは晩年霊界との交信を試みたという。今の視点から見れば、滑稽に映るかもしれないが、そこにいない人間の声が残るレコードや、そこにいない人間の声が聞こえる電話機は、そこに幽霊がいることと本質的に同義だ。

モールス信号は、本質的に0/1の通信の規格であるとともに、人間の痕跡、根源的な、触覚の繋がりの装置だ。

気配が全て知覚されうる / 気配以外は存在し得ない

情報は痕跡で、少なくとも、自分に届く頃には過去の情報だ。一生僕たちは現在に接近し得ない。

書けるもので書かれた書くことのできる物語というのが、少なくとも本に書いてあることの全てで、書けないものは書けない、多分本質的に書けないものがある。

書けないなら書かなければいいのだけど、書けないから書いてしまうのだろう。

少なくとも、正解なんてなくて、それは常に、一番“確か”らしい、ということだ。

確からしさのために人は無限に時間を使って、少なくとも、猿よりは早く、ハムレットを書き上げた。猿もそろそろハムレットの一章あたりは書き終えた頃だろう。

人間はランダムの偏らせ機なんだ、と考えた時に、少なくとも猿よりは優秀なんだ、ということがわかる。人間にとっては。

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2020年9月25日金曜日

まだ、十分にインターではなかった時代のインターネットについて −あるいは通信コストの問題で生まれた機械仕掛けの生命らしきものについて

 伺かと言うものがある。

あった、その頃はwindows meを使っていて、jpegを表示するにも数分待っていたような時代だったように思う、記憶違いで、もう家にもADSLが来ていたかもしれない。

mixiはまだなくて、当たり前だけどTwitterなんかもなかった、掲示板カルチャーや、CGIで自分のプロバイダのサーバーにチャットを置く、みたいな時代だったような気がする。

いろんな意味で、インターネットはまだあまりインターではなくて、やたら低い解像度の、今のgifアニメよりも画質の悪いような動画を見たり、人の立ち上げたサイトを眺めたり、ページを開いては読み込みに時間がかかるので、本を読みながらとか、何か別のことをしながらインターネットをしていたような気がする。

掲示板をF5で更新して、誰かからのレスポンスがついてないかを気にする。

少なくとも、Lineみたいなスピード感のやりとりじゃなくて、それはチャットが一般に普及するまでずいぶん待つ必要があった。当時自分は幼かったので、同年代ではない人の言葉を見ることがずいぶん新鮮だったかのように思う。

インターネットは、デュシャンが絵画について、または作品について言及したような「何か別のものへの窓」[デュシャン,1999]ではあったが、その大きさはとても小さくて、少なくとも、人間一人が、鏡の中に入っていった(Through the Looking-Glass)アリスのように窓の向こう側に行くことは不可能だった。

そんな中で、その空き時間を埋めるために「伺か」とか、比較的軽量で、ローカルで楽しめるフリーゲームカルチャーみたいなものが流行っていたんではないか、と思う。

僕は今だにその頃に出会ったフリーゲームの「くもりクエスト」が大好きだが、構造的にこのゲームは「伺か」と似ている。

彼女らはなんら生きていない、ただ選択のパターンであるとか、内部に持っている情報を、ディスプレイの前にいる人間の操作如何で、順次開示していくだけだ。

そこにストーリーテリングがあり、ストーリーテリングがある以上、人間は感情を動かされる。

全てが書かれた分岐式のロードマップとやりとりしている。つまり、パンチカードを機械に差し入れて、計算結果が返ってきた時代のコンピュータ、ないし、計算機と相対しているのと、なんら変わらない。でも、そこには、少なくとも、人間が孤独を埋めるための何かがあった。孤独でない、ということは、一人でない、ということだ。でも、少なくともここには誰もいない。

ノベルゲームもこの構造に似ている。情報が順次開示される、という方法は、少なくとも本を読むという行為よりはインタラクティブだったのかもしれない、本だって、ページをめくる、という行為によって情報が開示される、なんら変わりない構造であるというのに。

少なくとも、生命ではない、それは(もちろん知的でもない)、じゃあなんなのか、ということを考えてみると、なるほど、自分の中に生まれた虚像なのだと気づく、本質的に我々がストーリーテリングを、少なくとも、自分の心の中で受け止めようとするとき、そこにあるのは虚像だ。その像は、少なくとも、その作品の作者につながっている。

意図と構造は不可分なので、物語は必然的に、書いた人を投影することになる。しない、という立場の人もいるだろうが、それはまあ今は置いておく。(そして拾い上げることはしない)

気になるのは、これらのキャラクターが、少なくとも、この時代にインターネットの遅さという絶望的な環境に常に置かれていた我々の、孤独を埋めるために存在したのではないか。ということだ。

代理の人間だったのではないか、ということだ。

そしたらこれは正しく人口の生命を志したものだったんじゃないだろうか。

だったんじゃないだろうか。






2019年4月4日木曜日

失われた過去と未来の長門有希

 何がしかの締め切りに追われている、というか、その締め切りをだいぶブッチぎってしまっている。そういう時ほど、筆が走るもので、俺はというと誰もいないSOS団室で文芸部の部誌に掲載するための文章を書いている訳である。件の終わらない夏休みのこともそうであるが、どうも俺はこう、締め切りギリギリにならないと、いや、語弊があった、締め切りを過ぎないとやる気が出ないタイプであるようである。そしてその時に優先度が低いものほど締め切りがどんなに果てしない先であろうとも、手をつけてしまう。文芸部の部誌は先月出したばかりなので、これはつまり来年の原稿ということになる訳である。来年までSOS団が存続している可能性も、或いは願望実現能力なんてものが存在している世界では、来年まで世界が存在している可能性すらも怪しいもんだが、その可能性が低ければ低いほど、俺はそれに打ち込んでしまうのである。

 古泉は、ハルヒの常識的な思考によって、世界はすんでのところで平静を保っているというのであるが、実際の話、ハルヒが「世界中が全てふわふわのパンケーキでできていればいいのに」みたいなことを願う乙女チックな女子でなくてよかったと思う。実際のところ、長門辺りは「この世の全ての液体がカレーだったらいい」なんてことを考えてそうだし、それを実現する能力もあるものだから、タチが悪い。朝倉なんかはきっとおでんなんだろうな、ところで朝倉がおでんが好き、という設定はどこから来たのだろうか、思い返してみれば俺の思い出せる朝倉の姿は、だいたいおでんを作っている。俺に涼宮の面倒をだとかなんとか言いに来た時も、ガスコンロに寸胴鍋でおでんを作っていたような気がするし、ハルヒが教室でいきなり人目をはばからずに着替え出した時もおでんを作っていたような気がする。思い出すだけでもゾッとするが、放課後の教室で俺を刺殺しようとした時に持っていたのも、確か熱々のちくわぶかはんぺんだった気がする。確か冬にハルヒが消えた時には俺は朝倉にモチ巾着でぶん殴られて意識を失ったのではなかっただろうか。

 なんだかおでんのことを考えていたらおでんが食べたくなってきてしまった。ドアを開けるガラッという音がしたので、そちらを見ると長門が「レトルトカレーしかない」と言ってカレーを差し出してきた。確か部室のドアは引き戸ではなかったはずなので、サザエさんの家のドアのようなガラッという音はしなかったはずであるが、俺の覚え違いだったかもしれない。

 俺が袋からスプーンで直接カレーを食べていると、ふわふわのパンケーキの塊と、古泉がやってきた。古泉が、「おや、今日は何やら執筆されているようですね、昨日僕が負け越したオセロの再戦はお預けですか?」というので、そこまでいうなら今日もコテンパンにのしてやろう、と机の上を片付け始めた。ふわふわのパンケーキが俺たちにお茶を差し出す。いまいちどこが口なのかわからないし、もはやふわふわのパンケーキと化してしまった朝比奈さん声を発することができないので、それがわかったところでどうということはないのだが。俺はふわふわのパンケーキにお礼をいうと、湯飲みに入った熱々のカレーを飲みくだし、卓上にオセロの盤を挟んで古泉と対面した。

「では…」
古泉が初手の白を置く。こうして、また今日もたわいもない放課後の時間が流れてゆく。
もう何年繰り返したかもわからない、この永遠とも思える時間が…。

「失われた過去と未来の長門有希」完

2018年3月7日水曜日

ガラパ星から来た長門

 あの冬の大事件における事の顛末を思い出す度に、俺はなんだか「ドラえもんのび太の大魔境」を思い出してしまうのであるが、それはやはり、未来の自分たちがピンチを救いに来る、というところな訳で、そういえばタイムパラドックスとやらは一体どうなってしまったのだろうか。

 朝比奈さんに尋ねても[禁則事項]で要領を得ないであろうからこの事を長門に尋ねてみると、時間平面理論における解釈においては複数の時間平面に存在する異時間同位は言うなれば全く異なる存在であるために、それぞれの個体が出会ったとしても、それはあくまで構成要素の似ている他人に遭遇したのと同じであり、故にタイムパラドックスは起こらない、という事であった。

 朝比奈さんは昔、時間平面理論をパラパラ漫画を例に説明したが、詰まる所パラパラ漫画において描かれたキャラクターというそれぞれのページに存在する人格は、上位次元の観測者にとっては一貫性を持っているようには見えるが、同一次元、つまり三次元存在にとっては全く一貫性のない存在であり、つまり、1秒、1分後の自分はもはや時間平面理論においては全く同一の自分ではない。或は自分ではない、という事なのだろう。
 という訳で、時間平面理論を採用する以上、同一時間軸の同一時間平面上にいる自分と遭遇しない限り、俗にいうタイムパラドックスの心配はないらしいのである。

 昔うっかり今現在自分が存在している場所にTPDDを使ってタイムトラベルをしてしまった朝比奈さんが爆発四散したところを見たことがあるのだが、あれはどうやら同一時間平面上に重なって存在してしまったために二重に存在してしまった朝比奈さんの質量が核反応に似た反応によって起こした爆発であったらしいので、タイムパラドックスとは違うようである。その際朝比奈さんは何事もなかったかのように帰ってきたのであるが、それもやはり、いち時間平面上の朝比奈さんが爆発四散して消滅してしまったとしても別の時間平面の朝比奈さんがやってくればいい、というだけの話だからであろう。
 何よりも朝比奈さんは未来人であるので、過去で何度消滅しようとも、未来のある時間に存在することは確定しているので、言うなれば無限の資源であると言っても過言ではないだろう。

 パラパラ漫画のページに書き込まれた落書きであるならば、と朝比奈さんは次々と未来の便利道具を用いてなんども世界崩壊の危機を巻き起こしているのであるが、正直未来人が歴史を変えられない、というのは嘘なんじゃないかと思っている。どうやら俺たちの学校が山の上にあるのは朝比奈さんが三年前に使った「気ままに夢見る機」という未来の道具の所為であるらしいし、夏休みの孤島でのバケーションの帰り道に、バミューダ海域で海底人の文明を人工知能を持ったバギーによる特攻で崩壊させたり、雲の上に住んでいた天上人を「雲戻しガス」で皆殺しにしたりと、その行動の破天荒さは止むところがない。しかし、海底人にしても、天上人にしても、もし人類と遭遇したら大発見とともに大騒動になるのは目に見えているし、ひょっとすると朝比奈さんが現代で行なっている恐慌は朝比奈さんの存在する未来にとって必要な規定事項であるのかもしれない。つまり、朝比奈さんは然るべき時の流れ、人類中心の世界を作り上げるように動いているように見えるのである。

 朝比奈さんが現在に来たこと自体が、歴史の転換点であり、ターニングポイントなのだ。これは言うなれば、因果律の収束であり、役割理論における言葉で言うのならば、必然力というものだろう。運命力は異教徒なのであり得ない。

 というわけで、今回も朝比奈さんが「バイバイン」という未来の道具でハルヒの細胞を倍々に増やし、AKIRAの鉄雄みたいな感じにしたり、「進化退化放射線源」という道具で古泉を猿まで退化させたりと好き放題やったのであるが、最終的には長門を「ころばしや」で転ばせようとした際にブチ切れた長門が朝比奈さんにローキックを炸裂させ朝比奈さんは死んだ。しかしいくら殺しても朝比奈さんは別の時間平面から無限に湧いてくるのである。

 ここ数週間ほどは長門が全自動ローキックマシンと化し朝比奈さんを次々と始末していたのである。あるときは、とある時間平面からやって来たメカ朝比奈さんに「なぜ船が浮くのか」という質問を投げかけることによって船が水に浮かぶ原理を知らないメカ朝比奈さんの電子頭脳がショートを起こし大爆発するなどという1幕もあった。
 サイボーグ朝比奈さんがやって来た際には取り外した腕から「スーパーどどん波」を放てるようになった朝比奈さんと長門が大接戦を繰り広げた。

 ところで猿になった古泉はというと、延々とタイプライターを打っている。知能レベルも猿を同じになっているので、でたらめに打鍵したタイプライターから吐き出される紙は、まるで意味をなさないものであったのであるが、試行回数を繰り返すと、どうやら文章のように解釈できる部分が断片的に出てくるものである。
 そして猿の古泉がランダムに打ち出した文字列の中で、判読可能なものをつなぎ合わせたのが、この文章である。
 
「ガラパ星から来た長門」完

2018年2月12日月曜日

長門有希の新しい心

 3歳になって「イヤイヤ期」を卒業した長門は、現在では俗にいう「なんで?どうして?期」に差し掛かり、情報統合思念体によって生み出されたことにより持って生まれた博識を携えた上で古泉を質問責めにし、古泉が開示した情報に不備があれば質疑応答でそこを執拗に追求するということを繰り返していた結果、古泉は胃潰瘍をこじらせて全ての内臓を胃酸で融解させてしまったのであるが、そんな時ハルヒはというと、3ヶ月ほど前に「本当に日本の裏側にブラジルがあるのか確かめるわよ!」と言い出して、今日も校庭のど真ん中をシャベルで掘り続けている。いずれマントルにぶち当たってドロドロに融解することだろう。朝比奈さんはPTSD(だったと思う)と呼ばれるタイムマシン概念を応用して事象の地平面へ到達し、5次元の存在となって、本棚を通じてモールス信号で俺たちと交信を行なっている。俺としてはあの朝比奈さんの愛らしいお姿をもはや見ることが叶わない、という事実に若干打ちのめされたものの、5次元の存在となった朝比奈さんは時間、空間を超えてどこにでも偏在し、また歳をとることもない、という説明を長門から聞いた時には、永遠に美しいマイスイートエンジェルの姿を想像して幾分か気分を紛らわせることができた。


 実質メンバーが3人欠けてしまっているような状況であるので、最近のSOS団の活動はもっぱら長門と二人で図書館に行くことである。長門はここ20年間に発刊された電話帳を何度も何度も読み返し、各年度版における違いを発見しては喜んでいるようであるが、俺としてはもう少し健全な楽しみを見出してもらいたい。しかし俺たちSOS団と出会う前の長門は、3年間自分の部屋で正座をしたままじっと待機していたそうであるので、その頃に比べれば幾分かましになったと思いたい。ちなみに待機状態が終わり立ち上がろうとした長門の足を襲った三年分の足の痺れは1.21ジゴワットに達し、そのエネルギーによって三年前にタイムトラベルをしてしまった長門はそれからさらに3年間正座をし続けたという話である。正座をしても痺れない強靭な足を手に入れるまでにおよそ624年ほどこの工程を繰り返したという。実際過去の長門の家に行った時は、部屋が凄まじい数の長門ですし詰め状態になっており俺と朝比奈さんは部屋に入るにすらずいぶんと苦労した記憶がある。そんなに長門がいっぱいいたら、今世界は長門で溢れて困ったことになっているのではないかとも思うが、長門曰く、「サマータイムマシン・ブルース」理論とやらで問題ないらしいのである。実際に問題なかったので、問題ないのだろう。

 夕暮れまで長門は黙々と本を読んで、俺はというと長門の横に突っ伏して惰眠を貪っていたわけである。季節は冬だが、先日ハルヒが掘り当てた溶岩脈が破裂し、そこかしこに温泉や溶岩が湧いているので、街はいつもの冬よりもずいぶん暖かかった。それはそうと、ハルヒが親指を立てながらマグマの中に沈んでいくのを俺は偶然目撃してしまったのであるが、あいつのことだからそのうちひょっこりマグマ怪人として復活を果たすだろう。長門が図書カードを活用して電話帳を借りようとしているが、電話帳は新聞などと同じく貸し出し不可の資料扱いらしく図書館司書とずいぶん揉めていた。結果は、開始3分サミングからの連続ボディーブローによる昏倒、マウントをとった長門による顔面への乱打中にセコンドの俺と通報で到着した警察によって制止され、判定によってテクニカルノック・アウト勝ちとなった。


 長門がしばらく刑務所で過ごすことになったので、長門のいない部室はなんだかがらんとしてしまった。でも、すぐになれると思う。だから心配するなよ、長門…。


「長門有希の新しい心」完

2018年1月28日日曜日

「普通の長門有希」として存在したくないあなたへ。

 3歳になって「イヤイヤ期」を卒業した長門は、現在では俗にいう「なんで?どうして?期」に差し掛かり、情報統合思念体によって生み出されたことにより持って生まれた博識を携えた上で古泉を質問責めにし、古泉が開示した情報に不備があれば質疑応答でそこを執拗に追求するということを繰り返していた結果、古泉は胃潰瘍をこじらせて全ての内臓を胃酸で融解させてしまったのであるが、そんな時ハルヒはというと、3ヶ月ほど前に「本当に日本の裏側にブラジルがあるのか確かめるわよ!」と言い出して、今日も校庭のど真ん中をシャベルで掘り続けている。いずれマントルにぶち当たってドロドロに融解することだろう。朝比奈さんはPTSD(だったと思う)と呼ばれるタイムマシン概念を応用して事象の地平面へ到達し、5次元の存在となって、本棚を通じてモールス信号で俺たちと交信を行なっている。俺としてはあの朝比奈さんの愛らしいお姿をもはや見ることが叶わない、という事実に若干打ちのめされたものの、5次元の存在となった朝比奈さんは時間、空間を超えてどこにでも偏在し、また歳をとることもない、という説明を長門から聞いた時には、永遠に美しいマイスイートエンジェルの姿を想像して幾分か気分を紛らわせることができた。

 実質メンバーが3人欠けてしまっているような状況であるので、最近のSOS団の活動はもっぱら長門と二人で図書館に行くことである。長門はここ20年間に発刊された電話帳を何度も何度も読み返し、各年度版における違いを発見しては喜んでいるようであるが、俺としてはもう少し健全な楽しみを見出してもらいたい。しかし俺たちSOS団と出会う前の長門は、3年間自分の部屋で正座をしたままじっと待機していたそうであるので、その頃に比べれば幾分かましになったと思いたい。ちなみに待機状態が終わり立ち上がろうとした長門の足を襲った三年分の足の痺れは1.21ジゴワットに達し、そのエネルギーによって三年前にタイムトラベルをしてしまった長門はそれからさらに3年間正座をし続けたという話である。正座をしても痺れない強靭な足を手に入れるまでにおよそ624年ほどこの工程を繰り返したという。実際過去の長門の家に行った時は、部屋が凄まじい数の長門ですし詰め状態になっており、俺と朝比奈さんは部屋に入るにすらずいぶんと苦労した記憶がある。そんなに長門がいっぱいいたら、今世界は長門で溢れて困ったことになっているのではない、とも思うが、長門曰く、「サマータイムマシン・ブルース」理論とやらで問題ないらしいのである。実際に問題なかったので、問題ないのだろう。

 夕暮れまで長門は黙々と本を読んで、俺はというと長門の横に突っ伏して惰眠を貪っていたわけである。季節は冬だが、先日ハルヒが掘り当てた溶岩脈が破裂し、そこかしこに温泉や溶岩が湧いているので、街はいつもの冬よりもずいぶん暖かかった。それはそうと、ハルヒが親指を立てながらマグマの中に沈んでいくのを俺は偶然目撃してしまったのであるが、あいつのことだからそのうちひょっこりマグマ怪人として復活を果たすだろう。長門が図書カードを活用して電話帳を借りようとしているが、電話帳は新聞などと同じく貸し出し不可の資料扱いらしく図書館司書とずいぶん揉めていた。結果は、開始3分サミングからの連続ボディーブローによる昏倒、マウントをとった長門による顔面への乱打中にセコンドの俺と通報で到着した警察によって制止され、判定によってテクニカルノック・アウト勝ちとなった。

 長門がしばらく刑務所で過ごすことになったので、長門のいない部室はなんだかがらんとしてしまった。でも、すぐになれると思う。だから心配するなよ、長門…。

「長門有希の新しい心」完

2018年1月27日土曜日

限りなく長門有希に近いブルー

「空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていた。私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」 −ユーリイ・ガガーリン

ガリレオ・ガリレイは「地球は青かった」と言ったという。当時の学術界、宗教界は彼の論を否定し、彼は島流しの憂き目に逢うわけであるが、その際に見た海の青さを見て「それでも地球は青かった」と言ったのだという。それからおよそ300年後に、人類初の有人宇宙飛行に成功したユーリイ・ガガーリンは「地球は動いている」と言って当時天動説が主流であった天文学会を大いに震撼させたのだった。
 そして、天才バカボンのエンディングテーマでは「その日は朝から夜だった」と言ったのであるが、これは本筋に全く関わることがないので、この際、脇によけておく。ガリレオ・ガリレイは一説によれば「空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていた。私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」と言ったとも云われるが、どちらにせよ、当時の教会がこの言葉に激怒するのは火を見るよりも明らかであろう。

 ハルヒが、このガリレオの逸話を何かの本で読んでガリレオに哀れんだのか、それからというもの地球上にすべてのものは、人間の皮膚に至るまで青色になってしまったのであるが、元々青かった朝倉と、元々宇宙に存在した超知性を持った青色は依然青いままであった。
 しかし、これによって信号機の色はすべて青になり、青は「進め」、青は「気をつけて進め」、青は「止まれ」という非常に難解なものになってしまった。それによって発生した交通事故によって世界中の輸送機能が麻痺し、寒冷地などではすでに100万人以上の死者が出ているという。また、世界中が青一色に染め上げられてしまったせいで、レーザープリンターのトナー切れランプが青色になってしまい、トナー切れにとても気づきにくい、という問題なども発生していた。それによって1000万人以上の死者が出たという。
 古泉が尊い犠牲になったのも、このレーザープリンターのトナー切れによるものであったというのは、後で聞いた話になる。

 鯖の鱗も真っ青になってしまったため、鱗を見て鯖の鮮度を判断することができず、7万人の寿司職人が失職の憂き目に会い、白物家電は青物家電になり、桃色吐息も青色吐息になり、青色吐息は青色吐息になった。ピンク動画はブルーフィルムになり、特に意味合いは変わらなかった。

 「青は藍より出でて藍より青し」ということわざも、今回の騒動によって「青は青より出でて青より青し」ということわざになり、もはやなんの意味もなさない言葉となり、「朱に交われば赤くなる」ということわざに関しては、常々、「朱」と「赤」は、色鉛筆に「しゅいろ」と「あかいろ」が別々にあるのだから、違う色なのでは?と思っていたのであるが、晴れて「青に交われば青くなる」ということわざになり、俺の疑問は解消したわけである。

 かくして世界は青くなり、共産主義の脅威は世界から消え失せた。しかしガリレオを島流しに追いやった宗教を許すわけにはいかない。こうして、俺たちSOS団のメンバーは、地球上に存在する宗教の全てを根絶するために、旅立ったのだった。それが薄汚いアカどもの歩んだ道と同じ道であったとしても、俺たちは、ガリレオ・ガリレイの無念を忘れることはないだろう。
「Поехали!」俺たちは鬨の声をあげ、この世に存在するすべての宗教に、宣戦布告をしたのであった。

「限りなく長門有希に近いブルー」完


世界の終りとハードボイルド・長門有希ランド

終末時計が0時2分前である、とテレビのニュースでやっていた。「終末時計」がどう言うものかと言うと、その時計の針が業界用語で言うところの「テッペンをこえる」と、世界に終末が訪れると言われている伝説のオーパーツである。かつてはソビエト社会主義人民共和連邦の総書記とアメリカ合衆国大統領が凌ぎを削ってこの時計を手に入れようとしていたと言う噂がまことしやかに囁かれていた。そして厄災をもたらす「終末時計」は、かのインディアナ・ジョーンズの活躍によって冷戦の終わりとともに永久に葬られたと聞いていたが、どうやらアカ狩りを逃れた共産主義勢力の暗躍によって再び現代に甦ったらしい。

などと長々と語り口上を述べたが、この様な事例が発生した場合、10中108、109はハルヒが原因であることは言うまでもない。先日108つの不思議が集まる時「失われし聖櫃(アーク)」の力によって、再びヒトラーが復活し、共産主義勢力を地上から殲滅するという伝承が古代アッシリアの碑文から発見されたらしいのであるが、今回の件とどの様な関係があるのかは一切不明である。

長門は、来るべきの終末に備えて、キャンプ用のコンロや、寝袋、非常用の水、テントなどの準備に余念がなかった。

何しろ、あと2分で世界の終末がやってくるというのだから、急いで準備するに越したことはないだろう。

そして、ニュースのきっかり120秒後に、世界は終末を迎え、俺たちと共にこの世界の全てはまるで書籍の余白のように、真っ白に塗りつぶされて消えてしまったのだった。

「世界の終りとハードボイルド・長門有希ランド」完

2018年1月25日木曜日

クルツィウスとメディア考古学とトポスと部屋とワイシャツとポプテピピックとデビルマンと覚書

 ・メディア考古学における「トポス」概念

エルキ・フータモはメディア考古学において、クルツィウスの「トポス」概念を援用するが[フータモ,2015]、ここにおける、トポスとはどのようなものであるか。

 クルツィウスの言う「トポス」というのは、ぼんやり理解しようとすると、コンテクスト、であるとか、オマージュであるとか、これは少しニュアンスが離れるが、パスティーシュであるとか、そういう考え方に近いもののように理解できる。
これはより厳格なアリストテレスの「トポス論」と比較すると、幾分かフランクな理解であるように思う。

 そもそもフータモも自著において言及する通り、クルツィウスは「ヨーロッパ文学とラテン中世」において、文学と美術を大きな隔たりのあるものとして考えており、文学は思想を担うのにたいし美術は思想を担わない[クルツィウス,1971]とまで言い切っている。
この限定的な論をメディア“アート”に接続することには、幾分かの疑問が残るが、この話に関しては、フータモの「メディア考古学」第二章に詳細に記されているのでここではこの程度で終わるものとする。

 クルツィウスの“トポス概念”というのは、表現というものには一種の作法、というか、文法(言語学的なニュアンスではない)のようなものがあって、それは表現における決まりごととして度々文章の中に現れる、と言ったような考え方と言えるかもしれない。
例えば、クルツィウスは「知識を所有した場合、これを他人に告げる義務がある」という表現をトポスと捉え、この現代ではプログラミングにおけるオープンソースで提唱されるような思想はテオグニス、ホラティウス、セネカなどの文章、また聖書の「隠された知識、埋められた宝は、何の役に立とうか」という記述まで遡りうることを指摘している。

 フータモの論考では、この記述されたものにおけるトポスを、例えば広告のイラストレーションや、映像にまで応用可能であることを指摘している。フータモが提示した様々な例は、“考古学的”な検証によって視覚表現という言語によらない表現がどのようなトポスによって構成されているかという豊かな事例を示している。
 フータモの言うメディアの考古学的視点とはつまり、メディア表現におけるこのトポスの参照事例との接続と捉えることができる。詩、文学と同じく、視覚メディア、あるいはスターンの論考するような聴覚メディアにおいても[スターン,2015]、この“トポス概念”は応用可能なものであることを示すとともに、それらの現れは、表現と、そしてハードウェアの考古学として体系化できることを示していると言えるだろう。

 フータモはこのトポスの形成が、必ずしも太古の、すなわちクルツィウスの言うようなラテン中世にまで遡る必要はなく、より近い時代においても起こりうることを指摘している。スターンは音響再生機器の歴史を紐解きながら、人類がその歴史において、聴くという行為をどのように変遷させてきたかを論じたが、これもまた、いうなればハードウェアの考古学であると共に、聴覚文化というものが、どのように“聴く”という行為の中でトポスを形成してきたかを示していると言い換えることもできるだろう。

 ・メディアの異なる用いられ方
フータモはメディア考古学においてフーコーの「知の考古学」[フーコー,2014]を参照しながら「勝利を収めた」テクノロジーを中心に構成された直線的な歴史観に異をとなえ、その学術的役割をその直線的な歴史(言うなれば工学文化における効率、生産性等を重視する神話[久保田,2017]に由来するもの)から抜け落ちてしまっていたものの再発見に見出している。それはすなわち、過去から見ればスペキュラティヴ・デザインにおける「望ましい未来」[ダン&レイビー,2015]の積み重ねである現在を、過去の様々な考古学的な結節点から「起こりそうな未来」「起こってもおかしくない未来」そして「起こりうる未来」までを再考すると言うことに他ならない。フータモがデマリニスと岩井俊雄を並べて論述しているように(この二人の作家を並列に語ることにもいささかの疑問が残るものの)、メディア考古学的な作品と言うものは、ハードウェア的にも、そしてトポスの形成の仕方としても、考古学的な検証を元にした“ありえたかもしれない”メディア表現の形を示していると言えるだろう。(もっとも、作品として成立した時点で、それはもう“ありえた”ものであると捉えるべきなのかもしれない)

項が足りないので、ポプテピピックとデビルマンについては、次の機会に論ずるものとする。(項 (ページ)と言う概念の存在しないインターネットにおいて、このような文面を用いるのも、また紙の時代から続くトポスの一つであろう)

参考文献
E.R.クルツィウス,南大路振一,岸本通夫,中村善也,ヨーロッパ文学とラテン中世,みすず書房,1971

アンソニー・ダン,フィオナ・レイビー,久保田 晃弘,千葉 敏生,スペキュラティヴ・デザイン 問題解決から、問題提起へ。—未来を思索するためにデザインができること,ビー・エヌ・エヌ新社,2015

エルキ・フータモ,太田純貴,メディア考古学 過去・現在・未来の対話のために,NTT出版,2015

久保田晃弘,遙かなる他者のためのデザイン ―久保田晃弘の思索と実装,ビー・エヌ・エヌ新社,2017

ジョナサン・スターン,中川克志,金子智太郎,谷口文和,聞こえくる過去 音響再生産の文化的起源,インスクリプト,2015

ミシェル・フーコー,真改康之,知の考古学,河出書房,2014



2017年12月13日水曜日

愛はさだめ、長門有希は死

 朝倉がカナダからお土産として持ち帰った200万バレルのメープルシロップによって発生した洪水で北高が崩壊し、ハルヒが糖尿病になって死んでから2年ほどの月日が流れたが、今日もいつもと変わることなく、俺たちは文芸部室に集まり、そこかしこの床や壁の木材にほんのり残るメープルシロップの甘い香りを嗅いでは軽い頭痛を憶えるのだった。

 ところで読者諸氏は「マリオテニス64」をご存知であろうか、この話をするためには膨大な前提知識の話をしなければならないのであるが、まず、ドンキーコング、というキャラクターは三代にわたって続いている、ということをご承知おきいただかねばなるまい。
 俺たちの世代だとドンキーコングと言われて一番に思いつくのはスーパーファミコンの「スーパードンキーコング」に出て来たドンキーコングその人であると思うが、実はこいつは初代のドンキーコングではない。
 初代ドンキーコングは、その俺たちがドンキーコングだと思っているゴリラを杖でぶっ叩いて叱ったりするクランキーコングの方である。厳密にいうと「スーパードンキーコング」におけるドンキーコングは、初代ドンキーであるクランキーの孫なのだ。
 なるほどガッテン、と思っていただけたかもしれないのだが、ここからさらに話が一段と複雑になるので覚悟して聞いていただきたい。
 孫というからには、クランキーコングの子供の子供、ということになる、孫ドンキーは一般には2代目ドンキーコングと呼ばれているのであるが、このわかりやすくジョジョで例えるならジョナサン・ジョースターの孫のジョセフ・ジョースターの父親に当たるジョージ・ジョースターのポジション、ここにはドンキーコングJrというキャラクターがいるのである。本来ならこいつが2代目な気がするのだが、一般には孫コングの方が2代目と呼ばれている。
 さて、ここまで理解していただいたのであればやっと本題に入れるというものである。「マリオテニス64」俺は最初にこのゲームの名前を言ったと思うがこのゲームはなんと、この、子ドンキーコングjrと孫ドンキーコングが共演する非常に珍しい作品なのだ。それだけ聞くと、家族のほのぼのとした団欒のワンシーンをご想像の方もいるかと思うのだが、なんとドンキーコングJr、ファミコンゲーム登場時の子供の姿で登場してしまうのである。
というわけで、孫ドンキーは明らかに自分よりも年齢の低い父と共演することに相成ってしまうわけなのであるが…
 やはりそれはハルヒが時間平面破壊爆弾で世界のいたるところに時間断層を引き起こし、東京で江戸幕府と警視庁の内戦が起きたり、中国が三国志の英雄たちによって地域ごとに蜂起し中国共産党と内戦状態に入ったり、チェ・ゲバラがカストロと再会して共産主義革命の世界的拡大を宣言したり、リシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシーによってユグノーが弾圧されたり、未来人が光線銃で恐竜と格闘していることと大きな関係があるのだろう。

全く、ドンキーコングもとんだとばっちりを受けたもんだ。


「愛はさだめ、長門有希は死」完

2017年12月11日月曜日

デューン 長門有希の惑星

人類と宇宙人とのファーストコンタクトは、「野球をしたいから校庭を貸して欲しい」という、近所の草野球チームの陳情のような形でやってきた。
朝倉涼子という宇宙人の投げた外角低めのフォークボールを受け、長門有希という宇宙人の放ったホームランボールによって、北高の校舎は跡形もなく消失し、涼宮ハルヒという人物もまた、この時にボールと空気の摩擦によって発生した5の28乗ギガジュールの熱によって跡形もなく蒸発してしまったのであるが、季節はずれの風邪で寝込んでいた俺にとってそれは、後で聞いた話になる。谷口は「仰天動地だ…」と言っていた。

その宇宙人は「人間が死ぬ」ということに大変な不思議を感じた。なぜならば、本質的に時間的存在ではない情報統合思念体という概念である宇宙人たちにとって、時間とともに常に死んでいきつつある人類という物質的な種そのものが理解できなかったからだ。
進化にまつわる進歩的な情報を遺伝子のみではなくミームとして外部に依存するということも、情報そのものの集積体として生きる情報統合思念体には理解できないことだった。少なからず、人間という生き物は、死ぬ、ということによって消失するらしい、ということは理解できるのだが、この、消失する、という性質が情報統合思念体にはうまく理解できなかった。
物質は、例えば原子レベルで言えば物質の総量は変化していないのにもかかわらず、血流が止まるであるとか、それによって細胞への酸素供給が不足して分子構造が変化するとか、そういうことによって、人間は死んだり生きたりするらしい、ということに大変不思議を感じていた。

あわよくば、自分自身も「死んでみたい」と願ったのかもしれない。
そして宇宙人たちは、自分自身の血の流れを止めて、みんな死んでしまった。

その時、古泉には富士山という概念に成り果て、もはや自我というものが存在していなかった。そこにあるのはまごうことなく富士山であった。富士山が人間として存在しているという矛盾は、古泉の常識的な精神を次第に蝕んでいき、ついには富士山を演じる古泉は、中途千代の富士などを経由するなどの回り道はあったものの、古泉を演ずる富士山となり、最終的には富士山そのものとなったのだ。日本に富士山が二つある、という大きな問題が依然としてそこに横たわっているわけではあるのだが、これは観測者が人工知能になることで解決する。つまり数学の探索アルゴリズムにおける局所的山登り法を用いて、日本で一番高い山である富士山を探すために現在地よりも高い位置へ移動し続けることによって、たどり着いた頂点を富士山だと仮定する方法である。局所解は大局解から見ると大きな誤り含んでいることが明確であったりするのであるが、この方法によって導き出された富士山は、観測者にとって常に一つである。だから、富士山が二つあっても、富士山は常に一つしか観測されないのだ。

「デューン 長門有希の惑星」完

2017年12月10日日曜日

憂鬱な遺伝子を長門有希につけて

「“人間は根源的に時間的存在である”って言葉を知ってますか?」
ハイデッカーだか何とかと言うドイツ人が言った言葉である、と言うのは何となく知っていたが、なぜその時朝比奈さん(大)が今そのようなことを言ったのかは理解できなかった。
「私たちの存在は基本的に時間と言うものの流れから外れることはできません。例えば、私とキョンくんが長門さんの家で三年間時間凍結されていた時がありましたよね。世界では三年の時間が経っていたのに私たちはあの三年を知覚できませんでした。一瞬で三年が経過した、と、そう感じたはずです」
確かにあの時の三年を知覚出来ていたとしたら俺は朝比奈さんと同じ部屋で三年を過ごしていた訳で、朝比奈さんのようなエンジェルと二人きり同じ部屋で過ごすと言う夢のような生活を知覚できていなかったのだとしたら、俺はナイアガラのごとく滂沱の悔し涙を流すことだろう。
「私たちの主観で考えてみてください、私たちは存在しているのに私たちが世界を観測できたのは時間が凍結されてない間だけ、つまり、時間のない世界では私たちは存在していなかったのかもしれない」
それはシュレディンガーの猫であるとか、エヴェレットの多世界解釈であるとか、そう言う話のような気もするのだが、難しい話はあとで長門に聞いてみるとしよう。
「私たちは基本的に時間というものと共に存在しています。でもそうじゃない存在が、私たちの知る身近な人の中にいるはずです」
そこまで言われて俺はピンと来た、随分昔のことになるが、長門が情報統合思念体について話していたことを思い出したのだ。
「情報統合思念体は、時間的存在じゃない…?」
俺が疑問の声をあげると、朝比奈さんは小さくうなづいた。
「情報統合思念体は、時間の外側にいる存在なんです。もっとも、TFEI、つまり長門さんたちのような存在は、情報統合思念体が私たちにアクセスするための手段として、時間的存在にならざるを得なかった所があります。それが、長門さんが感情を持ったことの一つの原因なんじゃないかと私は考えています」
生物の感情というものは人間の自由意志であるとか、脳細胞のシナプスの接続経路とか、そういうものではなく「時間」に由来するものであるではないか、という朝比奈さんの仮説は一定の信頼を置けるような気がした。

 人間は物事を常に時間を付随して観測せざるを得ない。仮に一秒間に正三角形の線の上を1cm進む点Pが頂点Aから時計回りに出発して5秒後にどこにいるか、という問題を考える時に、いや、今ここで三角形の一辺の長さを定義していないことに関してのツッコミは置いておくとして、5秒後という「瞬間」に時間が存在していないか、というと、それは誤りなのだ。断続的に続く時間の一点を写真のように切り抜いたとしても、写真がシャッター速度によって定められた露光時間の光の反射の記録であるのと同じように、「今、その時」という一瞬も時間とともにあることは変わらないのだ。
 人は、常に時間とともに歩む、そして過ぎ去った過去が二度と戻らないものであり、これからくる未来というものが予測不可能なものだからこそ、人は悲しみ、喜び、不安に怯えるのだ。
 情報統合思念体にとって時間というものは過去未来現在全て同時に訪れるものなのだ。長門だって異時間同位体と常に同期していた時は、まさにそうだったのだろう。
つまり、長門は。宇宙開闢から宇宙の終わりまで、もっと言えば長嶋監督の国民栄誉賞の受賞や、誰も予想すらしなかったニューヨークメッツの優勝や、人類の滅亡や、俺と図書館に行ったことや、ドラクエⅢの発売日の大行列や、国鉄民営化と郵政民営化を同時に経験している訳である。3歳児なのに。

 人間、つまり時間的存在にとって、観測も行動も、全ては時間と共に存在するものである。つまり、死とは、人間が時間的存在という制約から解放されて、その人の生きた期間、という時間にとどまることなのではないだろうか。
だとすれば、死とは、人間を時間という枷から解き放つための唯一の道なのではあるまいか。
 死、その時から、観測者にとって時間の概念は消失する。古代エジプトの神官は、これを肉体と霊魂の分離と考えたが、それがそもそも間違いなのではあるまいか。
霊魂が戻って来るために肉体を保存する、という行為そのものが、時間という概念に縛られる愚かしい行為だ。

死とは、救いであり、救済なのだ。

 なぜ、俺は死というものを恐れていたんだろう、今、考えてみれば、死とは時間という人間を縛る檻から解放する唯一の手段なのだ。
死こそが、俺たちが目指すべき、神へと至る道なのだ。

「憂鬱な遺伝子を長門有希につけて」完


2017年12月2日土曜日

二十世紀の長門有希

涼宮ハルヒはこの世界に存在していない。
俺はなんだか気を使われているような、ギクシャクした会話を谷口や国木田としながら、自分の後ろの席の机に置かれた花瓶に刺された花が窓から吹き込む風に揺れるのをいやでも意識せざるを得なかった。

という訳で、ハルヒは先日不意のトラック事故で異世界に転生してしまい、この世界にはいないのであるが、俺たちにとっては今日も今日とていつも通りの日常が過ぎていくというのは、至極当然のことであった。

古泉は盤面が真っ白に染まったオセロを前に長考の姿勢であるが、もはや俺の勝ちは確定したようなものである。朝比奈さんは2036年から第三次世界大戦を阻止するために現代にやってきたのであるが、ハルヒの存在が消えたことによってミッションを達成し、未来人としての役割を終え、未来へ帰ってしまった。古泉は機関としての仕事がなくなり、これ迄自身にのしかかっていた超能力者としての重荷をおろして、学生としての生活を謳歌している。後で聞いた話になるのだが、古泉は機関のいざこざで学校に潜入したエージェントであり、実は26歳であるということを聞いて随分と驚いたものである。古泉自身、閉鎖空間での神人への対応でまともな学生生活も送れておらず、遅くもやってきた青春を謳歌しているという訳だ。全く、ハルヒが周りにどれだけ迷惑をかけていたかが如実に現れた話であろう。

情報統合思念体はハルヒの消失によって自立進化の可能性が断たれてしまったとして、ハルヒを観測するために派遣されていた長門の立場は大変危ういものになってしまったのであるが、長門自身に生まれた感情というものに新たな可能性を見出し、長門は継続して高校に通うこととなった訳である。

「しかし古泉、俺はてっきり、お前のボードゲームの弱さは一種の演技だと思っていたんだが…」
古泉は白一色に染まったオセロの盤面に目を落として難しそうな顔をしている。
「いえ、どうも、人と競うというのが苦手でして…」
古泉は恐らく、人を蹴落とすというような行為がすべからく苦手なのだろう。人間は一種の苦手意識によって無意識に自分自身の行動に制約をかけてしまったりするものであるが、恐らく古泉のボードゲームの弱さもそれに由来するのだろう。でなければこれだけ頭の良い奴が万年成績中の下の俺よりも弱いはずがないのだ。

長門は隅の椅子で「究極超人あ〜る」を読んでいる。長門の本の趣味は随分と幅広くなってきており、最近は漫画から何から種類を選ばない。しかし、読む本読む本、基本的にアンドロイドものなのはどういうことであろうか。アンドロイドとして暮らしていく処世術のようなものを学ぼうとしているのかもしれない。もしかしたら近いうちに、自分から電源をとって炊飯器でご飯を炊き出すかもしれないな。

ともあれ、ハルヒと朝比奈さんが抜けて若干の寂しさはあるものの、平穏な日々というものは大きな安らぎを俺たちに与えていたのだった。

しかしその平穏も、部室に突っ込んできた一台のデロリアンによって長門に情報連結を解除された朝倉よりも粉々に破壊されることになる。

「キョンくん!今すぐ未来へきてください!」
デロリアンから飛び出してきた朝比奈さんは慌てた様子でそう言った。
「未来のキョンくんたちが大変なんです!」

朝比奈さんに連れられて、古泉、長門、そしてあまり役に立たない俺というメンバーで向かった未来を、俺たちはデロリアンの車窓から眺める未来は、まさしくディストピアと言って然るべき状況であった。

SOS団のマークを腕章につけた軍人の様な出で立ちの集団が街を闊歩し、人々はその姿に怯え、街と呼んでもいいかどうか判断に困る様な荒廃した家の並びにひっそりと息を殺して暮らしている。
「異世界に転生した涼宮さんが願望実現能力で世界を繋ぐ大穴を開けてこの未来では異世界との大戦争が起こったんです」
朝比奈さん曰く、この世界の人口はもはや戦争前の一割にも満たず、そこかしこで大規模な虐殺や異世界から持ち込まれた病原菌による対処不可能な疫病によってその残り少ない人類ですらもはや絶滅の危機に瀕しているという。ハルヒ、いつかやると思ってたが、ここまでとは…

そこからの描写はめんどくさいので色々省くが、長門が宇宙人パワーでハルヒを100グラム127円の合い挽きのひき肉よりも細かいミンチにし、情報改変能力によって全てをなかったことにして、朝比奈さんの能力によってまた俺たちは現代に帰ってきたのだった。

古泉は何の役にも立たなかった。

「二十世紀の長門有希」完


2017年11月30日木曜日

猿たちはすべてが長門有希なんだと思っていた。

 涼宮ハルヒは全ての人間をジャガイモとしてしか認識できないのであるが、よくよく考えたらそれはひどく孤独なことであると思う。いつだかハルヒが親父さんに連れられて野球場に行った話を聞いたが、つまりそこでハルヒは5万個のジャガイモと芋洗い状態だったわけである。それだけの数のジャガイモの皮をピーラーで剥く手間を考えると、なんだかゾッとしてしまう。

 ハルヒは入学早々、「この中に宇宙人、未来人、超能力者がいたら私のところに来なさい、以上」と言っていたが、つまり、ハルヒはジャガイモではない人間を本気で求めていたのだ。というわけでSOS団には今やハルヒ以外に宇宙人、未来人、超能力者が勢揃いし、なぜだか恐らく普通の人間であるがゆえに、ジャガイモとして認識されているであろう俺もまた、その末席に名を連ねている訳である。

 惜しむらくは、揃いも揃った異質な存在であるSOS団団員諸氏が、ハルヒにそれぞれの思惑を悟られないためにジャガイモとして擬態をしている点にある。長門に至ってはもはや完璧にジャガイモである。ひょっとしたら最初の日から、椅子の上に本とジャガイモが置いてあっただけなのかもしれない。

 俺がジャガイモにナイフを突きつけられ、あわや一巻の終わりかと思われた時も、天井からジャガイモが落下して来て事なきを得、一巻はそこで終わらなかった訳である。もっと言えば続刊も出た。

 という訳で俺は今日もジャガイモさんの入れてくれたお茶を飲みながら、ジャガイモとオセロに興じ、休日にはジャガイモと図書館に行ったり、七夕にはジャガイモさんと過去へ行ったり、ジャガイモの家で三年寝太郎になったり、夏休みにはジャガイモ達と終わらない夏休みに興じたり、冬にはジャガイモの存在しない世界で4つのジャガイモを文芸部室に集めてキーボードのエンターキーを押し、その後ジャガイモにナイフで刺されたり、大小二種類のジャガイモさんに心配されたり、久々に会った中学の同級生が3つのジャガイモを引き連れてきたり、といろいろなことがあったのだ。

 ある日、学校に来ると、ハルヒの顔面がジャガイモになっていたのでたいそう驚いてホームルームをボイコットして長門に相談に行った。長門は

「そもそも、狂っていたのはあなた」

と言ったのだった。

そして、そこには一冊の本とジャガイモが転がっているだけであった。

「猿たちはすべてが長門有希なんだと思っていた。」完

ゴジラ・ミニラ・長門有希 オール怪獣大進撃

 文章の文学的な意味、と言うものを考えると、もはや一文字も筆を進めることができない。そもそも文学とは何なのか。文化とは、俺たちが当たり前に持ち合わせていると考えている、知性、と言うものは何なのだろうか。今、ファミレスのドリンクバーから持って来たホットコーヒーを眺めて、カップの取っ手をとり、口に運んだとする。そこに一体どの様に悟性と知性が関わっているのか、ということは、無学な俺には全く縁遠くて、理解不能なことだ。

ということで、俺は急に天井をぶち破るような音[1巻,pp188]と共に現れた長門が
「一つ一つのプログラムが甘い」
と言ったことに関する文学的な意味について考えを巡らせていたのであるが、そもそももはや状況が理解不能である。長門はなぜドラゴンボールのワンシーンよろしく天井をぶち破って現れるのでなく、ぶち破るような音とともに現れたのだろうか。実は一度たりとて、長門が天井をぶち破って現れた、とは描写されていないのである。俺は、つまり天井がぶち破られた様子を認識できていないのではなかろうか。

 なぜ、俺は天井がぶち破られた、と認識しなかったのか、それは恐らく朝倉によって情報改変されたこの空間は、俺の目や脳の認識できるレベルを超えてしまっているからであると推測される。情報の伝達手段として言語を用いない情報統合思念体[1巻,pp122]の情報改竄によって作られたこの空間は、恐らく人間が言語によって世界を認識している以上、視覚的にはなんとなくこの空間の壁が全てコンクリートの壁に置き換わっていた[1巻,pp185]と認識していたが、恐らくそれは言語化できない状況を脳が無理やり辻褄をつけるためにとりあえず用意した近似的に理解できる回答であって、恐らく正解ではないのだろう。

 言うなれば、今長門が槍のようなものに貫かれて鮮血を噴き出しているのも恐らく何かのつじつま合わせによる認識であり、今まさに朝倉が音もなくキラキラした砂になって消えようとしているのも、人間が視覚を言語的トポイに置き換えて認識している以上、この文学的表現は必ずしも正解であるとは言えないのだろう。認識できないものは表現できないのである。朝倉が消える、という結果を伴う事象をどのように表現するかという点でのみ、この表現は意味を持つのである。俺は朝倉が「砂のように崩れて消えていく」という表現の中で、「砂のように」という比喩を使っていることにも注目していただきたい。つまり、朝倉は砂になったのではなく、砂のようになったのである。その砂を構成するものは、恐らく岩石が風化・浸食・運搬される過程で生じた岩片や鉱物片などの砕屑物ではあるまい。タンパク質の結合を分解した細胞の塊とでも言った方が真実に近いのかもしれないが、この表現は、少し、いや、だいぶグロテスクである。

 物事というのはほとんどの場合その観測者の持つ文化的コンテクスト、イデオロギーによって認識に大きな差が出る。情報を情報として認識する情報統合思念体にはそのような齟齬は発生しないのではないか、とも思うが、今まさに主流派と急進派の派閥争いが繰り広げられていたわけで、情報統合思念体も、情報を解釈することによって理解していると捉えても良いのかもしれない。では情報統合思念体は、言語ではなく一体なんによって情報を理解しているのであろうか。

 などどいうことを考えているうちに、朝倉は
「私が消えても第2第3の朝倉涼子があなたたちの前に立ちふさがるでしょう、私は情報統合思念体急進派四天王の中でも最弱…それまで、涼宮さんとお幸せに、じゃあね」
と言って消えてしまったのだった。

「ゴジラ・ミニラ・長門有希 オール怪獣大進撃」完

2017年11月9日木曜日

最後の長門有希の惑星

地球をアイスピックでつついたとしたら、ちょうど良い感じにカチ割れるんじゃないかというくらいに冷え切った朝だった。 ー谷川流「涼宮ハルヒの消失」

先日ハルヒが地球をアイスピックでつついた際に、地球は真っ二つに割れてしまったのであるが、俺たちは今日も変わることなく不思議を探し求める毎日である。

二つに割れた地球がどのようにして宇宙空間に存在しているのか、重力はどうなっているのか、など、目の前に不思議なことはてんこ盛りなように思うのだが、その辺りにハルヒが興味を抱かないのは古泉流にいうならば常識人であるハルヒの自己防衛のためであるとか何とかであるのだが、落ち着いて考えればわかることだと思うが、常識的な人間はアラレちゃんばりに地球を割ったりしないものである。

ここ数日で人類は絶滅の危機に直面していた。核兵器をはるかに超える超磁力兵器によって、世界の半分を一瞬にして消滅させてしまった(つまり割れた地球の半分がなくなった) 。地球は大地殻変動に襲われ、地軸はねじ曲がり、五つの大陸はことごとく引き裂かれ、海に沈んでしまった。

朝比奈さんは「これも規定事項ですから」と平気な顔で言うのでいくばくかの安心が得られたのであるが、朝比奈さんがどのような未来からやって来たのか、何だか他人事ながら非常に心配になってしまった次第である。
朝比奈さんは孤島に行った時に船が浮く原理を知らなかったので、多分このあと海も干上がるのだろう。

ハルヒは熱心に虫眼鏡で不思議を探している。
「キョン!虫眼鏡で太陽光をアリに集中させると燃えるわ!パイロキネシスよ!きっと!」
高校の成績を見るにハルヒは非常に頭がいいはずであるのだが、時折本当に義務教育を受けて来たのか疑問に思えるようなことを言う。
長門は熱心にアリを両手の親指で潰しているし、朝比奈さんはアリを拾っては食べながら、「昆虫って結構栄養あるんですよね」と言っていた。

超能力者のお株を黒い小さな昆虫に奪われた古泉は、頭からガソリンをかぶって火をつけ赤黒く燃え上がりながら「涼宮さん、超能力ですよ」と言うのだった。
数十分で古泉は灰になってしまったのだが、長門のカドルトによってことなきを得たのだった。灰から蘇生する際に失敗した場合、古泉は永久にロストしてしまうので危ないところだったのだが、これも朝比奈さんの言うところの『規定事項』と言うやつなのだろう。

「最後の長門有希の惑星」完




侵略者の平和 第三部 長門有希

読者諸氏にとっても人生において、あの時ああだったら、こうだったら、と逡巡する機会は多いと思われる。
朝比奈さんは未来人であり、未来から来た人であり、PTSD(だったと思う)というタイムマシンのようなものも持っているのだから、例えば何か大きなミスを犯して赤っ恥みたいな状況になってしまった際に、あの人は目の端に涙をためながら過去へランナウェイするのだろう。もっとも、あの人が頻繁に『禁則事項』『禁則事項』と連呼しているところを見るに、その辺りは強く上司から戒められているような気がするのだが、あの人ならうっかりミスで頻繁に「涼宮ハルヒの娯楽天国」が建設されたディストピア未来にたどり着いてしまいそうであるので、ちょいちょいそういうミスの修正をしてるのではなかろうか、とも思う。ハルヒは馬糞の山に突っ込むのがお似合いというところだろう。

その頃朝比奈さんは、何度繰り返してもハルヒが馬糞の山にダイブしてしまう世界線を修正するために、孤軍奮闘していたというのは、後で聞いた話になる。

アイスピックでつついたとしたら、ちょうど良い感じにカチ割れるんじゃないかという地球を、暖かい日差しが優しく溶かしていくような、そんな陽気の昼だった。

2017年11月7日火曜日

宇宙探偵長門有希

われわれの周囲には、社会的栄光からの転落ぶりが驚くほど類似している大量のゲージがいる。その中には脳腫瘍や頭のけがや他の神経系の病のために脳にダメージを受けた者がいる。 ーアントニオ・R・ダマシオ「デカルトの誤り」

ハルヒが「光あれ」と発してから世界には光があり、淡路島が産まれ、そこから次々と国作りが行われたわけであるが、しかし広い宇宙の中にぽつんと淡路島だけが浮いている様子というのは、想像すると非常にシュールである。
未来の朝比奈さんは、「今回はキョン君に人類の誕生を妨害しに行ってもらいます」と言った。
という訳で、朝比奈さんが鼻からコカインを吸引すると同時に、幻覚作用からPTSDを発現し、ロシアとアメリカによって引き起こされた第3次世界大戦のアラスカ戦線の記憶のフラッシュバックによる四肢を引きちぎられたかのような絶叫をBGMに、俺は宇宙開闢以前まで時間平面移動をしたのだった。
宇宙が存在する前の宇宙空間というのは、いや、宇宙が存在しないのであるから、宇宙空間というのは間違いなのだが、つまりいくばくかの後に宇宙が存在したはずの虚無というのものは、何やら寂しい雰囲気に包まれている。しかしこの虚無、つまり何もない空間に『寂しい雰囲気』というものが存在するのは不思議なもので、人間が主観的に観測することによって完璧な無においても何かを見出してしまうものなのであろうか。
朝比奈さんはPTSDを発症してしまっており何の役にも立たないので、ここからは自分自身の力で何とかしなければなるまい。
しかしどうしたものかと途方に暮れていると、何かが無の向こうから平泳ぎでこちら近づいてきた。長門である。情報統合思念体は情報の誕生とともに生まれたはずであるので、全てが無であるこの空間に存在するのはおかしいような気がするが、ここが無である、という情報は確かに存在している訳であるので、ここに長門がいることもそんなにおかしいことでは無いのだろう。
しかし何もない空間というのは不思議なもので、端的に言ってしまえば上下という概念もないものだから、無の中で膝を抱えながらゲロを撒き散らす朝比奈さんも、無を縦横無尽にかき分けて平泳ぎをする長門も、俺から見ると上下左右がしっちゃかめっちゃかに見えるのだ。まるで無重力と言いたいところであるが、言うなれば無重力という概念は重力が存在するという前提のもとに存在するものであって、そこには有よりは相対的に無いという状態が存在するという方が正しいだろう。何も無い空間を俺が認識できるのも、強いていうならば、ゲロを撒き散らしながら無を漂う朝比奈さんという存在と、それ以外、という相対的認識によって無というものを認識している訳であって、無そのものを認識できている訳では無い。しかし、無はその相対的な認識によって認識されてしまう。故に、完全な無の中にも『寂しい雰囲気』が存在してしまう訳である。そして、『寂しい雰囲気』が存在する以上、それは完璧な無ではなくなってしまうのである。もっと言えば、『寂しい雰囲気』はその無によって、大気圏の酸素のある空間の中に、存在するよりだいぶその存在感を強めていると言えるだろう。無の中において『寂しい雰囲気』というのは有の中にあるよりも相対的に存在しているのである。

この後、無に光をもたらそうとしたハルヒをグーで殴り、宇宙の誕生を阻止した俺たちは無事人類の誕生を妨害できた訳であるが、当然の帰結として人類である俺はこの世界から消滅してしまい、世界は無で閉ざされてしまった。無論、ここには俺がいた、という情報が、無によって相対的に強調される訳であるのだが、無となってしまった俺にとって、それは何の意味もなさないのであった。

「宇宙探偵長門有希」完





2017年10月26日木曜日

長門有希たちの星

朝起きたら無人島にいた。
これだけ聞くと読者諸氏には誤解を与えかねないのでもう少し詳しく説明しよう。
俺が今、体育座りで座り込んでいるのは紛うことなく無人島である。
なぜ無人島だということがわかったのかというと、それはこの島が畳一枚にも足らないほどのサイズだからである。
島はサイズ的には小さいのだが、隆起した岩、というよりは、ミニサイズの島といったほうがよい。わずかに海面から顔を出した部分には土があり、ちょっとした草も生えている。どうやら当面は草を食って生きるしかないようだ。
周囲を見回すと、爽やかな潮風が頬を撫でる。水平線を見渡す限り、他の島などは見えない。
ぼんやりと海を眺めていると、向こうから平泳ぎで泳いでくる人影が見えた。
長門である。
思い出したくもないあの冬の騒動にしても、朝倉に殺されそうになった時も、いつだって俺を助けてくれるのは長門なのだ。きっとドラえもんばりに何か秘密道具を取り出して俺を助けてくれるに違いない。
ビショビショの長門が何を口にするのか、と期待の眼差しで待っていると
「退屈すると困るからUNOを持ってきた」
と言ったのだった。
かくしてひとりぼっちの孤島症候群から、人数は二人に増えたものの、俺たちはなすすべもなく、狭っ苦しい孤島でUNOに興じている訳である。
長門のあがり札以外全てスキップかリバースという怒涛の連鎖によって完膚なきまでに打ちのめされてしまう展開が延々に続いている中で、俺たちを見つけて救助のために近づいてきた船は多数あったのだが、それらの船は全て沈んでしまっていた。
何故ならばここはバミューダトライアングル。この海域を通る船が不思議な力で沈んでしまう魔の海域だからだ。
そして俺は目線を落とし、長門のドロ4を返す刀で打ち取ることのできるドロ2が手札にあることを確かめると、手にじっとりと汗をかきながらも逆転のチャンスを虎視眈々と狙うのだった。

「長門有希たちの星」完





2017年10月20日金曜日

ディスプレイと情報 人間の知覚範囲とフレームの大きさについて

 「スケッチブックは大きい方がいい」、と美術予備校時代に講師に言われたことがある。
何かを行うときに、フレームの大きさは人工知能にとっては致命的な足かせとなるが[1]、人間にとってはフレームの小ささこそが、その可能性を可能な限り広げるための足かせとなりうる。例えば、A4のコピー用紙に一辺30cmの正方形は書くことができない。ということは、必然的に、人間の持つ想像力でもって、例えば一辺20cmの正方形を30cmの正方形として認識する他はない。それは人間の能力の汎用性を讃えるべき一事例であるかのようにも感じられるが、ある側面で見れば、非常に無駄の多い方法であるとみなすこともできるだろう。
 iPhoneで本を読むより、Kindleで本を読む方がいいし、Kindleで本を読むよりはiPadで読む方がいい。前者はフレームの大きさの問題で、後者はインターフェイスの透明化[2]の問題であるが、なんにしても、フレームは大きい方がいいし、解像度は高い方がいい。
最も注目すべき観点は、現在昔ほど大きなディスプレイが高価ではなくなったにせよ、ディスプレイというものは大きくなればなるほど高価になる、という問題だ。そして、鮮明になればなるほど、高価になる。
 アラン・ケイの時代の人々が構想したGUIという考え方から、ウィンドウズがその象徴的な名前で登場してきて、モニターは情報という資産にアクセスするための窓となった。
何でもかんでもガメるには小さい窓では時間がかかる。それはウィンドウの小ささが情報という資産を運搬する上でのボトルネックとなるからだ。
iPhone3Gの3.5インチディスプレイとiPhoneXの5.8インチディスプレイではその面積比もさることながら、表示ピクセル数には天と地の差がある。前者が「320×480ピクセル」であったのに対して、後者は「2,436 x 1,125ピクセル」である。
かくて人類は、より多くの情報を、ディスプレイという窓から運搬できるようになった。
ここでも我々を縛るものは、y×x pixelであり、ディスプレイというフレームのインチ幅である。
 テレビは大きい方がいいに決まっているし、入ってくる情報も多い方がいい。インターネットに接続されたメディアから搬出される情報の増加は、おそらく人間の情報受容の時間感覚を大幅に高速化したはずで、番組の間挿入されるコマーシャルが異様に退屈に思えるのも、結局のところシングルタスクで処理するに値しないほどに、コマーシャルにおける情報量が少ない、というところに起因するのかもしれない。テレビを見ながらyoutubeを見たり、コマーシャルをカットした録画放送を後で見る、といった考え方も、言うなれば、コンピュータ黎明期のパンチカードの時代に、メインフレームと呼ばれる大型コンピュータが処理を行わずに遊んでいる時間を減らすために用いられた「タイム・シェアリング」[3]を行なっているようなものなのかもしれない。人間の脳というメインフレームをいかにしてロスが少ない形で運用するか、というのは今後の情報へのアクセスにおいて、重要な課題になっていくのではなかろうか。

 ディスプレイサイズと情報の取得という問題に関しては、人間の視覚の範囲との相対的な関係性でもって、VRという技術が登場してきたのも興味深い。ヘッドマウントディスプレイによって、ディスプレイの体感的な大きさは、ついに人間の視覚全てを覆うことになったのである。この考え方の根底には、映画やテレビの発達史から見るよりも、キネトスコープやゾートロープのような覗き見る映像の歴史から紐解いた方が理解しやすいように思う。覗き見る映像において、映像を誰が所有しているのか、それはたった一人の鑑賞者に他ならない。映画は光を投影する、という方法でもって、相対的にフレームのサイズを大きくすることを可能にし、映像をより多くに人たちに共有した。やがて映像は個人、あるいは家族単位に所有されるために、テレビという形でフレームの大きさを損なった。テレビが現在映画以上に人間をその前に引き止めている理由は、視聴の容易さという問題もあるが、最初に述べた人間の想像力によって、絵の大きさが人間の知覚に大きな影響を及ぼさない、というところも大きいだろう。
ともあれ、VRの登場によって、映像はまた、個人の所有物となって帰ってきた。ジャイロセンサーによって、自らの目の向く全ての方向が情報に満たされることになった。
そして、そこに映し出される情報を五感で持って運び出すことが可能になった。
それは、かつて球状の全天スクリーンに投影されたプラネタリウムの星々を盗み出すよりも、幾分か容易に行われることだろう。

[2]ジェイ・デイヴィッド・ボルター,ダイアン・グロマラ,田畑暁生訳「メディアは透明になるべきか」,NTT出版,2007